未来の自分をつくるもの/ぽんずのみちくさ Vol.3
自分の部屋が世界のほぼすべてになって、数週間が経つ。これを機になにかスキルを磨こうかなと思ったりもしたけれど、「有意義」なことをする気力が湧いてこない。
とりあえず手を動かしていると気が紛れるので、本棚の整理を始めた。もう何年も開いていなかった、一冊の本が目に留まった。チェコ出身の画家、ミュシャの画集。学生時代、プラハのミュシャ美術館を訪れたことをきっかけに買ったものだ。
そこでは、ミュシャの生い立ちを紹介するビデオテープが流れていた。そのワンシーンに、妙に心惹かれてしまった。
もう何年も前の出来事で、記憶だけが頼りなので正確ではないかもしれないけれど、要はこんな話だ。
「ミュシャは子どものころ、毎週教会に通っていた。ステンドグラスの光や賛美歌の響き、そこで得たインスピレーションが、その後の彼の作品に影響を与えている」
小さい男の子が、ぼうっと腰掛けている様を想像してみる。幼い彼は、賛美歌の内容もわかっていない。ありがたい話も、耳に入ってこない。ステンドグラスからこぼれる色とりどりの光をただ見つめて、きれいだなあと思っている。その経験は消えず、血となり肉となり、のちに彼の生み出す繊細なデザインや絵に影響を与えていく。
それ以来ミュシャが好きになってしまって、展覧会にいったり画集を買ったりするようになった。
私たちはもう子どもではないけれど、今、ただ美しいものを見つめる時間を過ごしてもいいんじゃないだろうか。本棚に眠っている展覧会の図録でも、むかし友人から届いた絵葉書でも、ベランダから見える夕焼けでも、スーパーで買ったみずみずしいトマトでも。
無心に「美しいなあ」と思った時間は、数字にはならない。手っ取り早くスキルをアップさせてくれるものではない。でもその経験は、自分の中にすこしずつ積もって、たしかに残っていく。「今私は、未来の自分の血液を作っているんだ」くらいの堂々とした気持ちで、ただ、美しいと思うものを吸収する時間を過ごしたい。
ぽんず(片渕ゆり)
1991年生まれ。大学卒業後、コピーライターとして働いたのち、どうしても長い旅がしたいという思いから退職。2019年9月から旅暮らしをはじめ、TwitterやnoteなどのSNSで旅にまつわる文章や写真を発信している。