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今夜、世界の裏側へ/ぽんずのみちくさ Vol.2

ぽんず(片渕ゆり)<連載コラム>毎週火曜日更新
ほんとに大切にしたい経験は
履歴書には書けないようなことばかり
旅をおやすみ中のぽんずが送るコラム

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今夜、世界の裏側へ/ぽんずのみちくさ Vol.2

実家に住んでいたころ、小説を読むのはいつも、うんとお気に入りのスペースでと決めていた。お気に入りといっても、チェーンのカフェですら存在しないような田舎町だ。私のお気に入りの場所はたいてい、図書館か自宅の二択だった。

ちいさな町の図書館には、書架のすみっこに一人用の席があった。座ると目の前にちょうど窓がきて、木漏れ日がさしこむ。すべての音を吸い込むような、図書館特有のしんとした空気の中にいると、日常のごたごたから遠く離れて、物語の中にどっぷり浸かることができた。

自宅で小説を読むときは、本のイメージにあわせて飲み物を用意するのが好きだった。ビターな推理小説ならコーヒーを。しあわせな恋愛小説にはミルクティーを。自分のベッドの上でくつろいで読むのが好きだったけど、ときどきこっそり父の書斎に忍び込み、どっしりとした古い木の机で読むのも悪くなかった。

とくべつな場所と時間を用意して読むと、本の世界に飛び込むのがいっそう楽しく感じられた。「読書は偉いこと」なんて言われがちだけど、私にとって小説とは、最高に刺激的で、同時に癒しでもあって、ときにスキャンダラスで、飽きることのない遊び相手のような存在だった。

そんなふうに、私は数々の物語との蜜月を過ごしていた。

しかし、上京してからというもの、気づけば隙間時間に急いで読むようになっていた。揺れる通勤電車の中、つり革につかまりながら、隣の人との距離感を気にしつつ肩を丸めてぎゅっとちいさくなりながら読むのが日課になっていた。

いつの間にか、私の読書体験はずいぶんとせせこましいものになってしまった。

インプット、アウトプット、そんな小難しい言葉は放り投げて、ただ、楽しむために本を読む。好奇心のおもむくままに文字を追う。たくさん読んだから偉いなんてことはない。お気に入りの一行を、味わうように何度も読み返したっていい。好きなシーンを思い浮かべながら、その場面にあう音楽を探したっていい。そんな時間こそふくよかな読書だと私は思うし、今こそ、そういう時間が必要な気がしている。

本の世界なら、地球の裏側へも、過去へも未来へも一瞬で行ける。からだは家にいても、想像力は閉じ込めない。

今日は何を読もうか。苦いコーヒーを淹れて、村上春樹の翻訳が冴え渡るクールな推理小説「ロング・グッドバイ」にしようか。吉本ばなな「キッチン」と甘いココアの組み合わせは、生活に疲れてるときほどぐっとくる。長い夜に「ハリー・ポッター」を読むなら、卵とホットミルクを泡立ててバタービール風にすれば完璧だ。考えをめぐらすだけでも、すでにちょっと楽しくなってきている。

テレビを消して、ちいさく音楽をかけて。自分だけの特等席を用意して、今夜は知らない世界へ行くと決めている。

ぽんず(片渕ゆり)

1991年生まれ。大学卒業後、コピーライターとして働いたのち、どうしても長い旅がしたいという思いから退職。2019年9月から旅暮らしをはじめ、TwitterやnoteなどのSNSで旅にまつわる文章や写真を発信している。

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