誰かと行く旅、ひとりで行く旅/ぽんずのみちくさ Vol.40
誰かと行く旅の良さは、「楽しかったね」と言い合える相手がいることだと思う。
ふらりと立ち寄った食堂が感動的な美味しさだった。焦って電車を乗り間違えた。誰もいない夕方の浜辺がきれいだった。旅から何年経っても「あの時さ、」と言い合えることを、幸せと言わずしてなんと言おう。
ひとり旅に、その楽しさはない。「寒いね」とつぶやいても、「寒いね」とこたえる人はいない。「楽しかった」のたった一言を誰かに伝えようと思ったら、言葉を駆使したり写真を見せたり、ときに映像をまじえたり、なんらかの工夫を凝らさないとその楽しさは伝わらない。かけがえのない時間の記憶を一緒に持ち続けてくれる人は、いない。
初めて長いひとり旅をしたのは、学生時代のヨーロッパ周遊旅行だった。初のヨーロッパ、初のバックパック、初の長期旅行。初めて尽くしの旅は感動の連続で、誰かに聞いてほしいことでいっぱいだった。だけどそれを伝える相手がいない。
誰かと行く旅と比べて、ひとり旅は飢餓感がある。どこか満たされない。「楽しいね」と言い合う相手がいない。
だけど、その「満たされなさ」こそが、ひとり旅の良さなんだとも思う。
大事な記憶は、気を抜くとすぐ風船のように飛び去ってしまう。手を離したらおしまいだ。日記を書いたり写真を撮ったりする行為は、その綺麗な風船を一つずつ紐でくくって、手にしっかり結びつけておくための行為だと思う。
自分が忘れたら、この景色の記憶は世界から消えてしまう。私が思い出せなくなったら、あの日の会話は永遠になかったことになる。そう思うと、いてもたってもいられなくなる。電車の中、バスの中、手が動かせる時間を見つけては、もくもくと書き留める。
私が長い旅日記を書き始めたのは、くだんのヨーロッパ旅行のときだった。感動をわかち合う人がいない分、夜な夜なパソコンに言葉を打ち込んだ。Wordにその日の記録を書いては、Dropboxに入れた。生存確認も兼ねて、家族や友人に読んでもらえるようにした。
このコラムも、過去のTwitterやnoteの投稿も、過去の自分が記録した旅の記録におおいに助けられている。私の頭はそんなに多くのことを記憶できないけれど、過去の自分が書いたその日の記録は、何年経っても褪せたり消えたりすることはない。昔の旅が、ずっと風を吹かせ続けてくれている。そんな不思議な感覚だ。
「楽しいね」と言い合える誰かとの旅。「楽しいね」を言う相手のいないひとり旅。正反対のベクトルの魅力がある。そのどちらも、私は愛している。
ぽんず(片渕ゆり)
1991年生まれ。大学卒業後、コピーライターとして働いたのち、どうしても長い旅がしたいという思いから退職。2019年9月から旅暮らしをはじめ、TwitterやnoteなどのSNSで旅にまつわる文章や写真を発信している。