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That's life. ハービー・山口

1枚の作品から奇跡的な物語が生まれ、その繰り返しが人生の軌跡となっていく――。50年以上にわたり撮り続けてきた、人々に希望をもたらす作品の数々はハービー・山口が歩んできた人生そのもの。「変わらない思いだけを胸に導かれるようにここまで来た」というハービー・山口が、あの日、あの時に撮ったからこそ意味があった、という数々の作品のエピソードを紹介してくれました。

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目次

プロフィール

ハービー・山口

写真家 1950年生まれ、東京都出身。中学2年生のときに写真部に入る。1973年、東京経済大学卒業後渡英。10年間の滞在中、パンクロックからニューウエーブに移行するエキサイティングな時代に遭遇し、多くのアーティストと交流。ロンドンでの写真が高い評価を受け、写真家としての礎を築く。写真のほか、エッセイ執筆、ラジオやテレビのパーソナリティ、作詞など活動は多岐にわたる。2011年、日本写真協会賞作家賞を受賞。2024 年、日本写真芸術専門学校の校長に就任。『LONDON AFTER THE DREAM』『LONDON Chasing the Dream』『代官山17番地』『and STILLNESS』『HOPE 空、青くなる』『1970年、二十歳の憧憬』『Tokyo Color_x』など写真集多数。

当時の自分を内包した作品は、撮影した僕自身をも鼓舞してくれる

人生のターニングポイントで写した作品は、未来の可能性をほのめかし奮い立たせる力がある

「Yesterday」London 1976

「タイトルの『Yesterday』は過去を意味しています。ロンドンのパブで目の前に座る一人の男性を眺めていました。表を若いカップルが歩くと、その男性がかすかに反応したような気がして、カップルの後ろ姿に自身の青春時代を振り返っているように見えたのです」

「Michelle」London 1988

「ビートルズも使っていた、ロンドンにあるアビー・ロード・スタジオに約1カ月こもって、僕は作詞家として、布袋寅泰さんと一緒に彼のフルアルバムのレコーディングをしていました。すべてが終わって訪れたライムライトというクラブで、隣にいた女性を撮った作品」。

「ロンドンにいた26歳のとき、劇団員として100回目の舞台出演を区切りに『写真に戻ろう』と劇団を辞めました。あてもなく風来坊のようなスタートだったけれど、退団1カ月後に劇団員に誘われて訪れた、若い写真家たちが集まる場所で自分の写真を見せたことがきっかけで、スポンサーがつき写真を撮っていけるようになった。そうしたなかで、今度は劇団員の元団長から誘いを受け、プライベートで、音楽アルバムの制作風景を撮ることに。リハーサルスタジオを訪れると、自分がレコードで見てきた名だたるミュージシャンが集まっていて、そしてこの撮影が、のちに続いていくミュージシャン撮影の皮きりとなりました。『Yesterday』は、そのときにリハの騒音から一人抜け出して入ったパブで撮影したもの。自分の原点ともいえる作品で、この1枚を見ると自らの選択と始まりの日々が鮮明に思い出されます。そして写真は、ときに自分自身をも鼓舞してくれる。『Michelle』を撮ったとき、僕は作詞家としてその場所にいました。『GLORIOUS DAYS』をはじめ、布袋寅泰さんのアルバムで8曲、初めて作詞をしたのです。日本に帰国し、アルバムのリリースと同時にBOØWYを卒業した布袋さんのソロ活動がスタートしました。その姿と、作詞という初めてのことに挑戦した自分̶̶。当時38歳、未来の可能性に向かって生きていくことを鼓舞されているかのような衝動を、この作品から受け取っていました」。

写真は自分の映し鏡。小さな出会いは、思いがけない未来につながる

親しげな表情を向けてくれたヴィヴィアンから、相手を尊重することを学んだ

「Vivienne Westwood in her Studio」London 1983

「撮影の合間、ヴィヴィアンは相談を持ちかけられたアシスタントに『仕事がうまくいかない自分を恥じる必要はない、それもあなたの個性なのだから』という言葉をかけていました。相手を尊重するという僕自身の人間性の芽は、このときに生まれたと思っています」。

相手を敬い、謙虚に丁寧に向き合うと、それに応えた表情を人は見せてくれる

「Robert Fripp at home」1983

「キング・クリムゾン初訪日の少し前、そのリーダーであるロバート・フリップの、ロンドン郊外にある自宅を訪れました。うれしくて、何度もお礼を言いながら撮影した。彼の笑顔は、被写体となる相手をリスペクトし礼儀正しくあることがいかに大切かということを、教えてくれました」。

「写真家を目指す人たちに話をするときに伝えているのが、『僕らは被写体をよく観察しているけれど、被写体はそれ以上に僕たちのことを観察している』ということです。1983年、ロバート・フリップを彼の自宅で撮影したとき、妻にも笑顔を見せたことがないと言われる彼が、笑顔を向けてくれました。それから40年が過ぎ、彼の笑顔の理由を知りました。僕のワークショップに参加した男性が、『これ、ハービーさんのことじゃないですか?』と見せてきたのは、キング・クリムゾンのCDに入っているブックレットでした。そこにはロバートの日記が記されていて、『初訪日を前に、私の家に初めて日本人のジャーナリストが来た。彼らの礼儀正しさとミュージシャンへのリスペクトは素晴らしく、笑顔がこぼれた。来月行く日本で、一生懸命演奏しようと思う』というようなことが書かれていました。自分の在り方が日本人観にまで影響していたことに驚くと同時に、相手を敬い、謙虚に丁寧に向き合うと、それに応えた表情を人は見せてくれるのだと改めて実感した出来事でした」。

自分の役割は、つくりものではない、その人の人間性を撮ること

その人の人となりが写るような作品を撮ることが、自分の役目だと思っている

「Masaharu Fukuyama」Tokyo 1997-1998

「福山雅治さんの写真集の撮影をしていたころ。写真はホテルへの移動中に撮った1枚で、『ハービーさんまた来てるんだね』と、温かい笑顔を見せてくれている。僕は素の部分にこそ人間性が出ると思っていて、そういう瞬間を撮るのが自分の写真家としての役割だと思っています」。

未来への期待を構図に込め、相手の明日の幸せを願いながらシャッターを切る

「きずな」Tokyo 2004

「背景に道が続いていくような構図を、僕は好んでよく撮る。道の先で、どんな人に出会い、どんなシャッターチャンスがあり、どんな人生を歩んでいくのだろうと、未来への期待を構図に投影しているのです。この少女の未来はどんなものか、彼女の明日の幸せを願ってシャッターを切りました」。

「つい先月、大阪の飲み屋で偶然隣合わせた50歳くらいの男性と話をしたときのこと。自己紹介がてら、僕が撮ったジョー・ストラマーの写真をスマホで見せたら、その方は若いころ洋楽が大好きで、自分の写真をよく見てくれていた。そして、『まるで友達が撮った写真のように、その人の人となりが写るようなハービーさんの写真に惹かれていた』という、うれしい言葉をいただいた。俳優やミュージシャンのよそゆき以外の顔を撮れるカメラマンは限られています。僕はその一人として、相手の人となりを撮ることが自分の役割だと、そのときに改めて認識しました。もちろん迫真の演技をしている姿を撮ることもあるけれど、僕は裏でふっと力が抜けた瞬間こそがシャッターチャンスだと思っていて、なぜなら人は、素の部分にこそその人の人間性が出ると感じているからです」。

変わらない思いだけを胸に導かれるようにここまで来た

カラフルになった東京の街を撮りたくて、カラーの作品を撮り始めた

「Tokyo Color_x」2023

「今も昔も東京タワーは人々に勇気を与えていると思っている。僕自身、高校生のときに学校の屋上から見た東京タワーに勇気をもらったことがありました。偶然いた女性にモデルをお願いして、2023 WORLD BASEBALL CLASSICのカラーに染まった東京タワーをバックに撮影」。

「Tokyo Color_x」2023

「あるときテレビで、髪をピンクに染めた少女が、染髪について『より自分らしくなれて、自信を持つことができた』と話しているのを聞きました。若者が表現を手に入れ、僕はカラフルになった東京を撮るために、写真人生において初めてカラー写真を撮ることに決めたのです」。

ミュージシャンからファッションデザイナー、俳優まで、世界に広く知られる著名人たちが見せる、優しく素直で、親しげな表情。タクシーの運転手や学生たち、被災地で強く生きる人たちなど、市井の人々の生き生きとした姿や笑顔̶̶。1970年代、ロンドンで本格的に写真家としての活動を開始して以来、いかに自然体を残すか、その人が持つ強さや優しさに目を向けるかを大切に、ハービー・山口さんは写真を撮り続けてきた。その道のりは、選択したというよりも導かれたものであり、自ずとそうなったのだとハービーさんは話す。
「僕は生まれて2カ月半で結核性カリエスを患い、常に痛みを抱えた状態で、コルセットが手放せない暮らしを送っていました。それが10代の終わりころ、医師から『無理な運動をしなければ生きられそうだ』と言われ、そのときに初めて生きる希望が生まれた。そして、そのとき見た希望を、この先の人生のテーマにしようと決めました。ひたむきに努力して生きている人は、どんな仕事や境遇の人であっても本当にいい表情をしています。人が持つ強さや美しさ、真心が、写真を通して他の人に伝播し、社会、ひいては世界全体がポジティブになっていったらというのは、僕が常々目指していることで、僕が写しているものは、希望そのものなのです。とはいえ、そのために何かを強く求めたり、選択したりしてきたかというと、それはないんです。僕は50年以上写真家として活動していますが、自分のスタイルとしてほとんどをモノクロームで撮影してきました。ところが数年前にカラーで撮り始め、その作品を今年、『Tokyo Color_x』という1冊の写真集にまとめました。髪を染めることで自己表現をする若者たちが増え、東京の街はカラフルになった。自分に似合う髪の色にすることで、より自分らしく自信が持てるようになったという声も聞かれ、そうした彼らの色や姿に目を奪われ、カラーで撮影したいと思ったことが始まりでした。では、この先もカラーで撮り続けるかといったら、それはわかりません。撮り続けるかもしれないし、モノクロに戻るかもしれない。時代の影響も受けながら、最後は自分に着地する。未来がどうなるかはお楽しみであって、決める必要はないと思っています」。
実際ハービーさんはこれまでも、作詞や執筆、ラジオパーソナリティなど、抗わず興味の赴くままに、写真を起点に広がるさまざまなことに挑戦し、今年は日本写真芸術専門学校の校長にも就任した。と同時に、撮って終わりではない、その後に続く奇跡のような体験を、ハービーさんは幾度となく経験してきた。その点が線となり、それが人生の軌跡となっている。

1977年に撮影したハービー・山口さんのセルフポートレート。ロンドンの自室にある鏡を使って撮影した。

GENIC vol.71【That's life.】
Edit:Chikako Kawamoto

GENIC vol.71

2024年7月号の特集は「私の写真世界」。
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