私物のあるホテル/龍崎翔子のクリップボード Vol.50
昔、京都のとある格式高いホテルで清掃のアルバイトをしていた。私は新入りの下っ端だったので、白いポロシャツにブカブカのキュロットに緑のエプロンと三角巾をつけて、よちよちと先輩たちの後について駆け回りベッドメイキングをひたすらこなすのに精一杯だった。清掃の仕事、といえばそれまでだが、実際に働いてみると皆が高い美意識を持って部屋を整える、いわば職人のような人たちだと感じた。シワひとつなくピンと張り詰めたシーツ、ふんわりと柔らかそうなかけぶとん、もっちりした枕。手際よくも、最後まで微調整を続け、どの角度から見ても美しいベッドを作るのだ。
大きなホテルなので、VIPのゲストも来る。VIPのお部屋は念入りに点検され、シワひとつ、塵ひとつない万全の状態で鍵をかけられる。下っ端はVIPの部屋は任されないので、お手伝いだけをして、この部屋に泊まるのは一体どんな方なんだろうと好奇心を膨らませながら客室を後にするのが日常だった。
そんな中で、一度だけスイートルームの清掃に入ったことがある。通常の客室清掃は、1部屋につき2人、せいぜい3人くらいで清掃をするのだが、スイートルームだけは5、6人でわらわらと客室に入っていったような記憶がわずかにある。そこは、私でも名前を知っているような、昭和バブル期に日本中のスポットライトを浴びていた女優の部屋だった。京都には、時代劇のロケを行う場所が多々あるから、撮影期間中は皆こうやってこの部屋に数週間滞在するのだと訳知り顔の先輩が教えてくれた。
ドアの外から覗く玄関には何足ものヒールにブーツが一列に並び、クローゼットには溢れ出さんばかりの洋服がかけられ、キャビネットの上には薬瓶が転がっていた。長期間泊まっているからだろうか、その客室はホテルのスイートルームだったことを忘れ、その人によって染められているかのような空間だった。このゲストは、いつも客室に香水を振りまくから、チェックアウトしてもなかなか匂いが取れなくて売り止めになるのよ、と先輩が教えてくれた。なるほど、確かにあたりはハイブランドの香水の甘い香りで満ちていた。
最近、新しいプロジェクトの関係で、とあるホテルを間借りして撮影を行う運びとなった。プロップスが必要になるタイプの撮影だったので、京都の自宅からさまざまなアイテムをスーツケースにつめて、はるばる新幹線に乗せて持ち込んだ。
夜、寝る前に、明日の撮影に向けて持ってきたプロップスをひとつひとつ取り出して部屋に並べてみた。レコードにゴブレット、カトラリー、アート、デスクライト…。見慣れたアイテムが窓際に並んでいくにつれて、なんとも表現し難い不思議な感覚に襲われた。目の前に並ぶ見覚えのあるアイテムに安堵を感じると同時に、自分がそれまでこの空間で異物だった、ということに気づいた、というのが適切だろうか。知らない人がたくさんいるパーティーで知り合いの顔を見つけた時のような安心感を、この場所であらためて感じることになるとは思っていなかった。
その時、かつて京都のホテルで見かけた女優の部屋を思い出した。きっと彼女は遠い場所で、家ではない空間で、自分が自分らしくあるために、空間を”支配”する術を見出していたのであろう。それが、自分のアイテムを並べることであり、自分の好きな香りを振りまくことだったのだと思う。
ホテルの非日常が好きだ。だけど、非日常が日常になる時、人は非日常に疲れてしまう。そんな中で自分を癒すには、自分で自分の五感を制御することなのだろう。旅に連れて行く私物こそが、旅のお守りなのだと思う。
龍崎翔子
龍崎翔子/SUISEI, inc.(旧:株L&G GLOBAL BUSINESS, Inc.)代表、CHILLNN, Inc.代表、ホテルプロデューサー
1996年生まれ。2015年にL&G GLOBAL BUSINESS, Inc.を設立後、2016年に「HOTEL SHE, KYOTO」、2017年に「HOTEL SHE, OSAKA」を開業。
2020年にはホテル予約システムのための新会社CHILLNN, Inc.、観光事業者や自治体のためのコンサルティングファーム「水星」を本格始動。
また、2020年9月に一般社団法人Intellectual Inovationsと共同で、次世代観光人材育成のためのtourism academy "SOMEWHERE"を設立し、オンライン講義を開始。2021年に「香林居」、2022年に「HOTEL CAFUNE」開業。