真夜中の刺客/ぽんずのみちくさ Vol.28
旅先での経験は、時間さえたてば、たいがい良い思い出に変わる。
お店のおじさんが私にだけ意地悪な態度だったこと。やたら空調の温度を下げたがる女の子と同室になり、「私は暑い」「いや私は寒い」と終わりのないケンカをしたこと。
腹の立つ相手に出会っても、帰りの飛行機で思い出すころには許せているし、家に帰ってから思い出せばそれもすべて良い思い出の一部となる。
だがしかし。一つだけ、許せない思い出がある。
人生2度目のタイ、バンコク。1度目に来たときは、まだバックパックさえ持っていなかった。大学生協でツアー旅行を申し込み、安全なビジネスホテルに泊まった。だけどもう、あのときの私ではない。ずいぶん旅慣れたし、宿も飛行機も自力で手配できるんだ。
意気揚々と選んだ宿は、1泊800円程度の格安宿。物怖じせずに泊まれる自分に誇らしささえ感じながらチェックインした。
隣のベッドにいたのはタイ人の女の子で、バンコクで開催されるスポーツ大会に出場するのだと話してくれた。「あなたは一人で外国に来たのね。勇敢ね!」褒められていい気になり、にこにこと眠りについた。
異変に気づいたのは夜中のことだ。
かゆい。蚊でもいるのだろうか。暗い中で虫刺されの薬を探すのもめんどくさくて、かゆさには気づかないフリをしてふたたび目をつぶる。
……いや、かゆい。猛烈にかゆい。足首、ふくらはぎ、太もも……もはや足全体がかゆい。
我慢できないほどのかゆさで眠れなくなり、左手でぼりぼりと足をかきながら右手で検索する。「海外 虫刺され かゆい」。
たどりついたのは、「南京虫」という名前だった。旅行記や旅ブログなんかで名前に見覚えはあったけど、まさか自分が餌食になるなんて!
さらに悲しいことに、今回に限って海外旅行保険を申し込むのを忘れたままタイに来てしまったことに気づいた。このままじゃ病院にも行けない。「なにごとも慣れたころが一番危ない」と言われる意味を、身をもって知った。
南京虫のタチの悪さは、かゆさに留まらない。服やバッグに住み着いたり卵を産みつけたりして、刺された人といっしょに移動していくのだ。つまり刺された人は、知らず知らずのうちに南京虫を拡散してしまうことになる。
かゆいだけでも災難なのに、歩く「南京虫拡散人間」になるのはまっぴらだ。着ていたパジャマも枕元の着替えもすべて厳重にビニールにくるんで泣く泣くゴミ箱に捨てた。
のちに知ったことだけど、その安宿には「bed bug(南京虫)がいて大変badでした」という怒りの口コミがいくつか寄せられていた。ああ、予約のときに気づいていれば。
この一件以来、宿を予約する際には「bed bug」にまつわる書き込みがないか、神経質なくらい確認するようになった。
あの小さい虫め。一夜の眠りと私のパジャマを奪ったあいつを、私は今後も許す気はない。
ぽんず(片渕ゆり)
1991年生まれ。大学卒業後、コピーライターとして働いたのち、どうしても長い旅がしたいという思いから退職。2019年9月から旅暮らしをはじめ、TwitterやnoteなどのSNSで旅にまつわる文章や写真を発信している。