あの子の好きと、私の嫌い/ぽんずのみちくさ Vol.50
「一緒」って、楽しい。「ひとりじゃない」って、心強い。「共感」って、安心する。
SNSは「共感」のツールだって、耳にタコが出来るほど聞いてきた。「Webには疎くって……」という先輩社員に対して得意げにかつて、「SNSは共感が大事なんですよ!」なんて鼻息荒く説明したこともあった。
子どもの頃、ラジオ体操のスタンプを貯めるのが好きだった。大人になった私は、人間関係にもスタンプカードを持ち込んでいた。あの人の好きなものを、私も好き。あの人の気持ち、私もわかる。友人や恋人とのあいだに「共感」が増えれば増えるほど、スタンプカードが埋まっていくような安心感があった。
だけど最近、共感至上主義のまま突っ走っていいのだろうか?と、立ち止まりたい気持ちでいる。
きっかけはいくつかあるけど、そのうちの一つは映画のレビューアプリだった。映画を観ること、そして記録することが好きな私はかつて、せっせとアプリに感想を書き溜めていた。「いいね」やコメントをもらえると嬉しかったし、映画を観るときは一人でも、誰かの感想を読むことで共通の経験が出来たような気がして嬉しかった。
むずがゆい気持ちを覚えたのは、とあるヒット映画を観たときのことだった。期待して見に行ったけど、全然ハマれなかった。ハマれなかったどころか、「あの描写はないわ……」と憤慨すら覚えながら帰路についた。レイトショーだったのについ恋人に電話して「ねぇどう思う?」なんて話をして呆れられた(そして翌日反省した)。
レビューアプリの高評価を見るたび、そして大好きな人たちが「あの映画は良かった」というのを聞くたび、後ろめたい気持ちを感じた(その映画を観たのはもう数年前のことだけど、未だにどこか少し居心地の悪さを覚える)。
でもそれは、私が勝手に「共感」のスタンプラリーを恋や友情の証にしていたからなんだろう。「同じ」ばかりが人を結びつけるわけじゃない。たとえば生まれた日も血液型も気になる趣味も同じ人間がいたとして、それ自体は運命でもなんでもない。
光があるところに必ず影があるように、好きのあるところには必ず嫌いがある。
「おんなじだね」は魔法の言葉だけど、「あなたはそうなのね」と思える関係を築けたら、たぶんそれは、共感だけで作られたそれよりもずっと強固なものになるはずだ。共感に頼って生きてきた私には難しい部分もあるけど、あなたが何を好きでも私はあなたを好きだよ、と伝えることから始めたい。
片渕ゆり(ぽんず)
1991年生まれ。大学卒業後、コピーライターとして働いたのち、どうしても長い旅がしたいという思いから退職。2019年9月から旅暮らしをはじめ、TwitterやnoteなどのSNSで旅にまつわる文章や写真を発信している。