百塔の街の一夜/ぽんずのみちくさ Vol.54
「安全」と「安心」は、ときにイコールではないらしい。そう知ったのは、チェコ、プラハの街でのことだった。
プラハは「百塔の街」。歩けば塔にあたるといった具合に、角を曲がった途端、目の前に美しい塔が現れる。ふと遠くを見ると、霞んだ空気の向こうに塔の先端が見える。美しい街をもっと見たい気持ちはあったものの、移動続きで疲れていたので、早めに切り上げて予約していたゲストハウスへ向かうことにした。
地図を見る限り、その宿は立地がよかった。その割に価格もリーズナブルだったので、見つけたときに、即、予約を入れた。
好立地、低価格。にもかかわらず、定員10人の相部屋には誰一人として宿泊客がいない。不思議に思いながらも、バックパックを下ろし、部屋の隅っこにあるベッドを確保する。
今日も無事に一日を終えた。深呼吸して、ふと気づく。うっすら、だけど確かに、タバコの匂いがする。消臭剤でおおかた消されているけれど、壁や絨毯にしみついている。長い時間をかけて蓄積された、タバコの気配。
トラウマというと大袈裟だけど、私はこの、「宿で感じるタバコの匂い」というのがあらゆる香りの中でもトップクラスで苦手だった。
きっかけは些細なことだった。子供の頃、とある大型ホテルの火災についてのテレビ番組をうっかり見てしまった。大勢の犠牲者を出した悲劇の原因は、宿泊客の寝タバコだったという。
けたたましく鳴る緊急車両のサイレン。迷路のような廊下で逃げ惑う人々。難航する救助ーー。その場に居合わせたわけでもないのに、子供の豊かな想像力を、いらぬ方向にフルに働かせてしまった。それ以降、宿泊施設でタバコの匂いを嗅ぐたびに、恐ろしい場面をくっきりと頭の中で再生するようになってしまったのだ。
日が暮れても、新しい宿泊客は一人として訪れなかった。10人部屋をひとりじめ。静かだし、盗難のリスクもないし、好きなときに着替えも可能。貴重品の整理だって堂々とできる。ある意味とっても安全な環境だ。なのに、ちっとも安心感なんてない。
がらんとした部屋に空っぽの2段ベッドが並ぶ様は、つめたい監獄のように思えた。天井にまでうるさくペイントされた安っぽい花柄模様は、部屋が暗くなると、どす黒い染みのように見えた。先日訪れたお寺にあった血天井を、嫌でも思い出す。
いざ寝ようとした頃、どごどごと突き上げるような爆音が響いてきた。ーー真下の階に入っているテナントは、ライブハウスだったのだ。私以外に誰も客がいない理由を、ようやく完全に理解した。
盗難のリスクがあってもいい。着替えのタイミングを見計らうのが面倒でもいい。誰か、この部屋に人間が居てくれたらいいのに。今の私は、安全よりも、安心感のほうが欲しい。なすすべもなく薄い毛布を頭までかぶって過ごす夜は、いつもよりも長かった。
片渕ゆり(ぽんず)
1991年生まれ。大学卒業後、コピーライターとして働いたのち、どうしても長い旅がしたいという思いから退職。2019年9月から旅暮らしをはじめ、TwitterやnoteなどのSNSで旅にまつわる文章や写真を発信している。