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ぼんやりを買って船の上/ぽんずのみちくさ Vol.15

ぽんず(片渕ゆり)<連載コラム>毎週火曜日更新
ほんとに大切にしたい経験は
履歴書には書けないようなことばかり
旅をおやすみ中のぽんずが送るコラム

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ぼんやりを買って船の上/ぽんずのみちくさ Vol.15

私が大学生でひとり旅を始めたばかりのころは、まだWi-Fiもそんなに普及していなくて、SIMカードにもロックがかかっていたから、一度海外へ出てしまえば容易に誰とも連絡がつかなくなった。飛行機が離陸する瞬間に思うことはいつも同じで、「もう誰も私を追いかけられない、誰も私の居場所を知らない」と考えるたび、羽でも生えたように気持ちがふっと軽くなった。

最近は、そんなことはない。海外用のSIMカードもあるし、機内でさえもWi-Fiサービスがあったりして、時差が何時間もある場所にいたってLINEも仕事もできてしまう。

もちろんそれはとても便利で、私はその便利さをめいっぱい享受しているし、異国でネットが使えることのメリットは数え始めたらキリがない。

でも。それでも。「誰ともつながらない、つながれない」瞬間を懐かしく思ってしまうのも事実だ。そんなときに見つけたのが、タイからラオスへ船で移動する「スローボートの旅」だった。

母なるメコン川の上を、2日間かけて一艘のボートでゆっくり進んでいく移動手段。テレビもない、スマホも使えない、目の前に広がるのはひたすら大自然のみ。「退屈で苦痛でした」という体験記もあったけれど、それ以上に心惹かれる気持ちが強かった。タイの小さな旅行代理店で申し込み、意気揚々と船に乗りこむ。

席の番号はいちおう決まっていたけど、小一時間もすればみんな勝手に動き始め、小学校の修学旅行のバスのような賑やかさになる。

たぷたぷした水の音だけを聴きながら、あらかじめ買っておいたビールの缶を開ける。船着き場にある小さな店の店主が、「冷たいほうがいいだろ」と、ビニール袋いっぱいに氷を詰めてくれていたおかげで、キンと冷えている。

目の前に広がるのは、ひたすらに山と川。たまに、沿岸に住む人たちが洗濯をしていたり、子どもたちが水遊びをしていたりする。カラフルなTシャツを着た彼らが、大きく手を振る。野生と思しき象が水浴びをしているのも見た。

船内はそんなに揺れないので手塚治虫の『火の鳥』を読んでいたところ、隣に座っていたイギリス人が「そのイラストすんごいクールだね!?」と驚いた様子で話しかけてくる。

1日目の夜は、パクベンという川沿いの小さな町に宿泊した。あらかじめ乗船者はめいめい宿を予約していたものの、ふたを開ければなんと全員が同じ宿だった。そのくらいコンパクトな町だった。

翌朝。朝靄につつまれた川を眺めながら不思議な気持ちになる。知らない場所にいるというのに、東京の朝より落ち着くのはなんでだろう。

すっかり慣れたボートに乗りこんで、2日目の船の旅がはじまる。

途中で地元の人たちも船を乗り降りする。ある人が平然とペットボトルを川に投げ込むのを見て驚いた。

窓ガラスはないので、雨が降ってくると中も濡れてしまう。時折霧雨が降ると、そのときだけみんなで機敏に動いてビニールシートをひっぱりカーテン代わりに取り付ける。


やがて日が沈むころ、船はルアンパバーンに着いた。穏やかだった川の色が、もうすっかり深い紫色になる。灯りひとつない川辺の夜は、人ならざるものの時間という感じがして、慌てて船を降りた。

何か誇れるような学びを得たわけでもなければ、刺激的な体験をしたわけでもない。ただ波の上で移り変わる景色をぼんやり眺めていただけの2日間だった。でも、たしかに「旅」だった。誰とでもつながれる便利な世の中だからこそ、すべてから遮断された空白の時間を愛してしまうのだろう。旅の中では「二度とごめんだ」と思う体験も多いけど、このスローボートは何度だってまた乗りたいと思っている。

ぽんず(片渕ゆり)

1991年生まれ。大学卒業後、コピーライターとして働いたのち、どうしても長い旅がしたいという思いから退職。2019年9月から旅暮らしをはじめ、TwitterやnoteなどのSNSで旅にまつわる文章や写真を発信している。

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