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健康ランドの誘惑/龍崎翔子のクリップボード Vol.55

龍崎翔子<連載コラム>第2木曜日更新
HOTEL SHE, 、香林居、HOTEL CAFUNEなど
26歳にして複数のホテルを運営する
ホテルプロデューサー龍崎翔子が
ホテルの構想へ着地するまでを公開!

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健康ランドの誘惑/龍崎翔子のクリップボード Vol.55

溜まった仕事を片付け、スーツケースを引き摺りながら京都駅を駆け巡り、夜21時過ぎに発つ新幹線の自由席車両に飛び乗る。ホームの明かりが滑るように窓の外を流れていき、やがてあたりは暗闇に飲み込まれ、時折街灯の光がキラリと窓ガラスに反射する。東京駅に着くのは23:30頃だろうか。かれこれ7年近く、毎週のように東京-京都間の往復運動をしているものだから、私はきっと地球何周分もターコイズブルーのベンチシートの上でジッと過ごしているのだろう。

最近はなんだか忙しくて、1日のうちに何度も嬉しいニュースと最悪なニュースが波のように交互に押し寄せて、情緒がおかしくなってきている気がする。京町家の素敵な自宅はいつの間にか飲みかけのペットボトルとコンビニのビニール袋で埋もれ、脱ぎっぱなしの洗濯物は山脈になり、ヘアセットはおろかスキンケアも満足にできない朝が続いている。

煌々と照らされる車内で、世界中から話しかけられてるんかというほどあらゆるアプリに次から次へとくるメッセージを打ち返し続けていると、タイムワープしたかのように車内アナウンスが終点の到着を告げる。いそいそと慌てふためいて荷物を取りまとめ、疲れた身体でタクシー乗り場に向かう。

今夜はラクーアに泊まる。ホテル経営の仕事をしているから大きな声では言うのはやや憚られるが、東京出張で寝るだけの夜はいつも、燦然と煌めくスーパー銭湯の仮眠室で過ごすのだ。そしてそれは意外にも自己憐憫の風合いを一切持たず、ただ純度100%の娯楽として自ら嬉々として向かっているのである。


健康ランドという響きが好きだ。安直に名付けるならナントカ浴場とでもなりそうなところを、健康をエンターテイメントするんだという強い意志を感じるネーミングなのが一層素晴らしいと思う。薬草湯にサウナ、水風呂、アカスリ、湯上がりアイスに瓶の牛乳…。身体をポカポカにするだけで日頃の疲労にストレス、浴びせられる邪気、そして俗世の垢がツルリンと流れ落ちて、トゥルトゥルの私に生まれ変わる。

大阪でホテルを開業したばかりの時、遊びに来てくれた友人たちに新今宮のスパワールドをおすすめしていたら、来る人来る人ゆでたまごのように頬をツヤツヤさせ、ほくほくと上気した笑顔でうっとりしながらホテルに帰ってきていたのが印象に残っている。たかだか体温よりちょっと高いくらいのお湯に様々な趣向を凝らしているだけで、かくも人は骨抜きにされるのかと衝撃を受けたのを覚えている。

労働で限界まで疲れた深夜に一目散に駆け込んだ健康ランド。ご老人が平日の昼間から憩っている健康ランド。旅の宿をそっとタクシーで抜け出して向かった健康ランド。夜半の月影に露天風呂が照らされる健康ランド。いつだって少しかび臭くて、でもその気配すらも愛おしい。お風呂への愛を語れば、古代ローマ人とだって仲良くなれるだろう。

フィンランドのサウナ巡り取材に向かう飛行機の中で、同行者がサウナへの期待を言葉にしていた。広告代理店に勤める彼の無欲な小学生の娘が、ハワイよりも近所の極楽湯に行きたいと語るのを嘆きながら、本場のサウナは極楽湯のそれよりどんなにか素晴らしいだろうかと高鳴る胸を震わせていた。その1週間後、ヘルシンキから羽田空港に戻る飛行機の中で、「本当の天国は近所にあった」と彼がボソリと呟いていたのを私は聞き逃さなかった。

そう、天国は思ったよりも近くにある。健康ランドはワンコインで私たちを天国へと導く、退屈な現代社会のユートピアなのである。

龍崎翔子

龍崎翔子/SUISEI, inc.(旧:株L&G GLOBAL BUSINESS, Inc.)代表、CHILLNN, Inc.代表、ホテルプロデューサー
1996年生まれ。2015年にL&G GLOBAL BUSINESS, Inc.を設立後、2016年に「HOTEL SHE, KYOTO」、2017年に「HOTEL SHE, OSAKA」を開業。
2020年にはホテル予約システムのための新会社CHILLNN, Inc.、観光事業者や自治体のためのコンサルティングファーム「水星」を本格始動。
また、2020年9月に一般社団法人Intellectual Inovationsと共同で、次世代観光人材育成のためのtourism academy "SOMEWHERE"を設立し、オンライン講義を開始。2021年に「香林居」、2022年に「HOTEL CAFUNE」開業。

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