この世の美しいもの、ぜんぶ/ぽんずのみちくさ Vol.37
「小豆島に行ってみたい」と、長らく思っていた。瀬戸内海にあるたくさんの島の中で、どうしても小豆島を訪れてみたかったのには理由があった。
時間は少し戻って、2020年の2月。一時帰国していた私は、次の旅に向けて出国した。その頃、きっとまだ誰も、2020年が大変動の年になるなんて気づいていなかった。Twitterは、芸能人の不倫ニュースとゴシップで持ちきりだった。
ほどなくして、「不謹慎」という言葉がSNS上で飛び交うのを目にするようになった。「こんなときに旅行を楽しんでいるなんて、不謹慎」。
ずん、と胃が重くなるのを感じた。私の「旅」は仕事の側面もあるんだけど、端から見ればそんなの関係ないのだろう。
それから少しすると、アジア人であることを理由に差別に遭うようになった。私の顔を見た瞬間、ハンカチで口を覆ってこちらを睨みつけてくる人。すれ違いざまに差別用語を吐いて去っていく人。お店への入店拒否。複数で連れ立つ若い男性たちが「バッグの中にウイルス入れてんのか」と大声でからかいながら近づいてくる。
たった数週間で、いや、たった数日で、世界がこんなに変わってしまうのか。
急遽、日本に帰ってきた。だけど、家に帰っても不安な日々が続いた。
帰ってきたはずなのに、気持ちの居場所がない。逃げ込んだのが小説の世界だった。
手に取ったのは角田光代の『八日目の蝉』。恋人の子どもを誘拐して育てた女と、育てられた子どもの物語だ。物語の中で、小豆島が重要な舞台となる。
物語の終盤、とある人物がこんなことを言う。
「それで私ね、思ったんだよ。私にはこれをおなかにいるだれかに見せる義務があるって。海や木や光や、きれいなものをたくさん。私が見たことあるものも、ないものも、きれいなものはぜんぶ」
2020年の春、人生をかけた夢がつぶれて鬱屈した気持ちになっていたとき、この台詞はお守りのように思えた。そうだ、まだ世界には見ていない美しいものがたくさんある。まだ見たい景色がある。
小説の中で描かれる島の景色や海の美しさが、読み終わったあともずっと心に残っていた。この景色を私も見てみたい。瀬戸内海のきらきら光る海を眺めてみたい。
そうしてやっと、島へ行くチャンスが訪れた。念願の小豆島を訪れた日は、快晴。もう冬が近づいているというのに、穏やかな日差しは肌をくすぐるように気持ちがいい。風が吹くたび、オリーブの葉っぱがさやさやと爽やかな音をたてる。陽光を浴びて、海面がきらきら光る。この景色を見たかったんだ。
「見たい景色がある。だからこの目で見にいく」。それ以上の理由なんてない、このシンプル極まりない行動が、時として生きがいと呼べるほど強く大きな喜びになりうる。
小豆島の海を見られてよかった。まだまだ見たい景色がある。へこたれてたまるか。日がすっかり沈むころ、足の疲労感とはうらはらに、気持ちは元気になっていた。
ぽんず(片渕ゆり)
1991年生まれ。大学卒業後、コピーライターとして働いたのち、どうしても長い旅がしたいという思いから退職。2019年9月から旅暮らしをはじめ、TwitterやnoteなどのSNSで旅にまつわる文章や写真を発信している。