もしもあの時、出会わなかったなら/ぽんずのみちくさ Vol.35
過去に「たられば」はない。もしあのとき、ああしてい「たら」。こうしてい「れば」。どれだけ考えても過去の出来事は変わらない。
とはいえ、ありえたかもしれない選択肢について思いを馳せたり、想像を広げたりしてみることを、私は無駄だとは思わない。
小学生のころのこと。休日に家族で出かけた先で、たまたまフリーマーケットが開かれていた。
そこで宝物と出会った。それは、真っ赤な箱に入った絵具セットだった。
海外の有名な絵具メーカーのもので、箱の中には30色の水彩絵の具がお行儀良く収まっていた。細い銀色のチューブには、それぞれ繊細な色をしたラベルが貼られている。赤や青など、慣れ親しんだ原色のチューブは入っていない。その代わり、「オペラ」「コバルトグリーン」「セルリアンブルー」など、呪文のような名前が書いてある。魔法のアイテムみたいな名前を眺めるだけで、心が踊る。
学校規定の「えのぐ12色セット」しか使ったことのない私でも、それが良い品物であることは一目見てわかった。在庫処分のために出されていたのか、封も開けられておらず、新品のようだった。
価格は500円。定価の10分の1という破格のお値段だけども、小学生にとっては真剣な選択だ。当時のおこづかいが300円。月給1.5ヶ月分ちょっとのお買い物。だけど、この絵具で絵を描いてみたいという気持ちが勝った。
毎年おこなわれる学校のスケッチ大会に、張り切ってこの絵具セットを持っていった。前の年は、何を描きたいかもわからなくて、先生に言われるまましぶしぶ「町民会館」を描いた。だけど今年の私は違う。私には、魔法の絵具セットがある。大好きな「ハリー・ポッター」シリーズに出てくるスネイプ先生の地下室をイメージしながら、理科準備室の絵を描いた。
「見たもの」を描くけど、「見えたまま」には描かない。
そんなスケッチを描くのは初めてだった。絶妙な色合いの絵具には、私の表したい色がすべて詰まっていた。ダークなファンタジー映画みたいにしたくて、空はわざと暗めの色で塗った。天球模型は魔法のアイテムのようだと思いながら描いた。窓の外に見えるソテツの木も、心持ち、おどろおどろしくしてみた。
今までのどの年よりも気に入ったスケッチが完成した。自信作だったので、スケッチ大会の選考を手伝っていた美術委員の友人にこっそり先生たちの評を聞いてもらったところ、「暗い」「小学生の絵はもっとのびのびしてないと」とのことだったそうだ。人生、そう上手くはいかない。
それでも、自分の目が見た景色に、感情を載せて形にする楽しさを知った。
もし、あの絵具と出会わなかったら。美しいと思った景色を残す喜びを知らなかったかもしれない。記憶を画像に変える楽しさに気づくことはなかったかもしれない。となると、カメラへの憧れを持つことも、なかっただろう。
そう考えると、あのときフリマで素っ気なく売られていた絵具セットがなかったら、私の人生はずいぶん違ったものになっていた可能性がある。
過去に「たら」も「れば」もない。精神衛生上、考えないほうが良い「たられば」もある。だけど、自分の人生にも運命的な偶然や良い決断があったんだなと思える「たられば」なら、振り返ってみても良いと思う。
ひどく疲れた日の終わり、私はそういう出来事について布団にくるまれながら振り返ってみる。そして「人生捨てたもんじゃないよね」と思いながら眠りにつくのだ。
ぽんず(片渕ゆり)
1991年生まれ。大学卒業後、コピーライターとして働いたのち、どうしても長い旅がしたいという思いから退職。2019年9月から旅暮らしをはじめ、TwitterやnoteなどのSNSで旅にまつわる文章や写真を発信している。