カップケーキの誘惑/ぽんずのみちくさ Vol.69
旅の前に、本屋で買ってきたガイドブックを眺める時間は至福のひとときだ。あれを見たい、ここに行きたい。巻頭に並ぶ煌びやかなカラー写真と地図を照らし合わせながら、まだ見ぬ街の姿を想像する。
その時間の中で、一度も食べたことのない食べ物に「ピン」と来てしまうことがある。ああ、これは好きなやつだ、と。そしてその予感は不思議と、たいてい当たっている。
カップケーキもその一つだった。存在としては知っていたけれど、食べたことはない。見るからにカロリーの高そうな濃厚クリームに、日本ではなかなかお目にかかれないカラフルな佇まい。ガイドブックをまじまじと見つめながら、「絶対食べる」とマーカーで大きな〇をつけた。
念願のカップケーキを初めて食べたのは、冬のニューヨークでのこと。お店はセントラルパークにほど近い場所にあった。
その朝、セントラルパークに向かって歩いていたら、向かいから来るサラリーマンに声をかけられた。「どこへ行くの?」と聞かれ「セントラルパーク」と答えると、道案内してあげるよと言う。「聞いてもないのに道を教えようとする人間を信じるな」というのが私の旅の鉄則なので、私はかなり警戒した。迷ってもないし、聞いてもない。しかしこちらの様子なんて気にも留めず、サラリーマンはセントラルパークへの道をずんずん進む。
正確な道を教えてくれたばかりか、途中の路上スタンドで、コーヒーまで奢ってくれた。自分が買うついでだから、と。雪こそ降っていなかったものの、真冬のニューヨークは冷える。にぎりしめた紙コップ越しに、指先があたたまるのを感じる。セントラルパークが近くなると、「すぐそこだよ」と言ってサラリーマンは自分の勤め先へ颯爽と消えていった。
以来、「ニューヨーカー」という言葉を聞くたびに、このときのことをちょっと思い出す。出勤前に観光客に道を教え、一杯のホットコーヒーをご馳走するサラリーマン。東京の街で、まだ同じくらいの親切を私は実行できていない。
カップケーキとこの思い出は、ワンセットで記憶されている。そうそう、カップケーキ。「ニューヨーカー」のお陰で無事にお店についた私は、ガイドブックで一目惚れしたピンクのケーキを注文した。
「これでもか」というボリュームでずっしり乗っかったバタークリームはなめらかというよりザラザラで、砂糖の感触が舌でもわかるくらい。ひとくち食べれば、口中に広がる甘さで脳がちょっとクラクラする。ケーキというよりはカステラみたいな、ほろほろした食感のスポンジは、こってりしたクリームとの相性が良くて、嫌になりそうなくらい甘いというのに、気づけばぱくぱく食べ進めてしまっている。
「好物」と呼べるほどの頻度で食べているわけではないけれど、旅先で少し歩き疲れたとき、カラフルなカップケーキがショーウィンドウに並んでいるのを見かけると、ふらふらと吸い寄せられるようになってしまった。
こんな原稿を書いていたら無性にカップケーキが食べたくなってきた。都内にどこか店舗はないのだろうか。かつてニューヨークで訪れたお店の名前を検索してみる。日本にも店舗があるらしいと喜んだのも束の間、4年も前に閉店していた。
見た目も可愛いし、味にも中毒性があるし、日本でも流行るポテンシャルを秘めている気がする。どこかの誰かが、日本にカップケーキの波を起こしてくれないだろうか……。他人まかせな願望を胸に、私は次のカップケーキチャンスを待ち侘びている。
片渕ゆり(ぽんず)
1991年生まれ。大学卒業後、コピーライターとして働いたのち、どうしても長い旅がしたいという思いから退職。2019年9月から旅暮らしをはじめ、TwitterやnoteなどのSNSで旅にまつわる文章や写真を発信している。