季節と景色に立体感を与えてくれるもの/ぽんずのみちくさ Vol.67
最近まで、匂いというものをあまり気にしないまま生きているつもりでいた。もともと鼻炎体質なこともあって、五感の中でも嗅覚がいちばん鈍い存在のような気がしていた。つけすぎるのが怖いので、香水も持たない。
旅先でも同じく、嗅覚はなんとなく存在感が薄かった。目に映るものにはなるべく注意を払っていたし、知らない言葉で歌われるポップスを聴くのも好きだったし、新しい味と出会うのも楽しかった。非日常の体験が夢ではなく本物だと実感できるのは、ごつごつした石畳の歩き心地や、頬に感じるじりじりした熱気や、道端で売られている色鮮やかな布地のさらりとした感触のおかげだった。
しかし、今思えば、そのすべての体験に立体感を与えてくれていたのは「匂い」だったのだ。
皮肉なことに、匂いの大事さに気づいたきっかけは、マスク生活だった。フィルター越しでは匂いの存在感が何段階も落ちる。だけどその分、マスクを外したときに感じる匂いが特別に感じられる。
早朝、窓を開けたときに感じる雨の匂い。北海道にいたとき、誰もいない雪原で感じた冬の匂い。マスク越しでもほんのりと感じる、庭先に植えられた花の甘い匂い。夕方のベランダですこしの熱気とともに感じる初夏の匂い。今までは何も特別だと思っていなかった匂いたちが、何倍にも良いものに感じれらるようになった。
季節の実感は、匂いの中にある。人によっては当たり前のことかもしれないけれど、一年以上に及ぶwithマスクの生活の中で、私は初めて実感した。
「匂いには疎い」と冒頭に書いたけれど、そういえば旅先でもめいっぱい鼻から息を吸って、その匂いを楽しんでいた場所があったことを思い出す。それは、降り立ったばかりの異国の空港だ。
空港には、それぞれ匂いがある。インドの空港では、むっとする湿度の中にスパイスの香りを感じた。アメリカの空港では、甘い香水の香りがあちこちからした。空港で出会う香りはいつも、映画の予告編みたいに、これから起こることや、出会う景色を予感させる。
今までだって、散歩中の犬のようにくんくんと喜んでいた。マスクをつけずに空港へ降り立ち、思いっきり深呼吸できる日が訪れようものなら、泣いてしまうかもしれない。くたびれたバックパックを背負って到着ロビーの真ん中でひとりダバダバと涙を流している人間がいたら、たぶん、私です。
片渕ゆり(ぽんず)
1991年生まれ。大学卒業後、コピーライターとして働いたのち、どうしても長い旅がしたいという思いから退職。2019年9月から旅暮らしをはじめ、TwitterやnoteなどのSNSで旅にまつわる文章や写真を発信している。