ひとりに「なりたい」わけではなくて/ぽんずのみちくさ Vol.62
紙のノートを使っていた学生時代、カフェでMacを使っている人は、みんな自慢したがりなんだと思っていた。なんだよなんだよ、みんなリンゴ光らせちゃって。
だけど、実際に自分でMacを買ってみて気づいた。薄いし軽いし、カバーを開けばすぐに使える。まるで本とノートを持ち出すのと同じくらいの気軽さで、外でもパソコン作業ができるじゃないか。そうと知ってからは、カフェにも旅先にもMacを持ち運ぶようになった。
誰かと同じ物事について話していても、見ている方向が違うことって、きっと珍しくない。同じ一枚のコインについて話していても、表を見ている人と裏を見ている人とでは、話が食い違うように。
私が海外旅行に行くとき、たいていはひとりだ。行きたい場所があって、見たいものがあって、そこに行く。それが圧倒的一番の大目的なので、「誰かと行く」というのはプラスアルファの選択肢なのだ。
ひとりであることは、ごく自然なことで、思い切ってひとりに「なる」ためにチャレンジしたわけではなかった。
だけど、ひとり旅について話すとき、「なんでわざわざひとりで海外へ?」と聞かれることも少なくない。「どうして ”ひとりで” 行こうと決めたんですか?」と。だけど、私の感覚としては、「わざわざ決断した」という感覚もなければ「ひとりを選んだ」とも思っていない。
そういうとき、たしかに「ひとり旅」について話をしているにもかかわらず、なんとなくお互いにすれ違っているような感覚があった。せっかく興味を持って話を聞いてくれている相手に、うまく伝えられないもどかしさと申し訳なさが残る。
その違和感の正体に気づいたのは、映画「私をくいとめて」を観ているときだった。主人公・みつ子が初めてローマへ行こうと決意するシーンで、ひとり海外旅行は「おひとり様の総本山」と表現されていた。そのとき初めて、腑に落ちたのだ。
ひとりカルチャースクール、ひとり焼肉、ひとり温泉を経て、満を持してのひとり海外旅行。ひとり旅とは、ひとりを極めし者の、到達点……。そうか、ひとり海外旅行を、そう捉える人もいるんだ。そうだとしたら、「ひとりで旅したい理由」や「わざわざひとりを選ぶ理由」を聞かれた理由にも納得する。
コインの反対側を初めてちゃんと見ることができた気がして、すこし嬉しくなった。
世の中には無数のコインがあって、当たり前だと思っていることでも、くるりと向きを変えてみると全然違うように見えるのだろう。気づいていないものもあれば、見て見ぬフリをしているものもあるはずだ。Macを買うだけで向こう側が見えるときもあるし、一生かけてもわからないこともあるだろう。それでも生きている限りは、向こう側の景色を探すのだ。
片渕ゆり(ぽんず)
1991年生まれ。大学卒業後、コピーライターとして働いたのち、どうしても長い旅がしたいという思いから退職。2019年9月から旅暮らしをはじめ、TwitterやnoteなどのSNSで旅にまつわる文章や写真を発信している。