ニワトリと卵、ストレスと体/ぽんずのみちくさ Vol.70
近頃どうにも、奥歯が痛む。虫歯だろうかと思って歯医者へ行くと、「虫歯どころか、歯そのものに問題はありませんね」という診断をくだされた。「でも痛いんです…!」と訴え、さらにもう少し見てもらったところ、顔にぐっと力を入れて、無意識のうちに歯を噛み締めていることが痛みの原因であることがわかった。
痛みの正体は、砂糖や冷たいものではなくて、なんと自分だったのだ。噛み締めることで歯に余計な力がかかり、酷使された奥歯は悲鳴をあげていた。噛み締めの原因はと言うと、どうやらストレスらしい。このコロナ禍でストレスを感じずに暮らせと言われても難しいけれど、なるべく噛み締めないよう気をつけていたら、奥歯の痛みはだんだん治まってきた。
一番ひどいのが眠っているときで、意識がないぶん容赦なく力を入れてしまうそうなので、マウスピースを作ることにした。自分の歯をかたどった透明のそれは、分身の一部が落っこちてるみたいでちょっと不気味で、最初のころは嫌だったけれども、一週間ほど毎晩着け続けていたら慣れてきた。
一連の「歯騒動」の末、驚いたことがある。奥歯を労る生活をしていた結果、長い間ひそかに悩まされていた悪夢もぱったり見なくなったのだ。あまりにも長い時間が経ってしまって自分でも忘れかけているけれど、じつは私は今、「一時帰国」の途中にいる。2020年、旅の途中で世界がコロナに見舞われ、都市や空港の閉鎖を受けて緊急帰国し、それから旅が宙ぶらりんになって今に至る。そんな生活の中で、いつしか毎晩のように悪夢を見るようになった。追いかけられる夢、災害にあう夢、自分が死ぬ夢、次々と人が死ぬ夢……。一度きりなら「ああ、なんだ夢だったのか」と胸を撫で下ろせば済むけれど、毎晩こうも悲劇のオンパレードを映像で見せられると、朝の爽やかさはどこへやら、憂鬱な気持ちで起きるのが当たり前になっていた。
そんな悪夢が、ぱったり止んだのだ。ストレスフルなコロナ禍の真っ只中にいる以上、悪夢を見るのは仕方のないことかと思い込んでいたけれど、もしかすると、歯の痛みが原因だったのかもしれない。「拍子抜け」という言葉がぴったりだ。
そういえば、生まれて初めてのマッサージをタイで受けたときも似たようなことがあった。卒論の疲労や就職への不安を抱えているタイミングで、現実から逃げるように向かったバンコクでマッサージを受けた。自分の体を労ることを「贅沢」と切り捨て、気合いだけでどうにかする兎飛びメンタルで生きていた私にとって、本場でマッサージを受けてみるというのはそれなりのチャレンジだった。しかし、いざ受けてみたら、血流が良くなるとともに、頭を占めていた心配事まですーっとほぐれていくではないか。その日の帰り道は、ギラつくバンコクの強い日差しまでもが気持ち良くて、まるで一学期の終業式を終え、夏休みの幕開けを迎えた小学生みたいな気分で帰路についた。
学校で、部活で、職場で。自分を「追い込む」術はたくさん教わってきたけど、「労る」術について教わることはなかった。だからこそ、意識して自分で習得していくしかない。まだまだ先は長いのだから。
片渕ゆり(ぽんず)
1991年生まれ。大学卒業後、コピーライターとして働いたのち、どうしても長い旅がしたいという思いから退職。2019年9月から旅暮らしをはじめ、TwitterやnoteなどのSNSで旅にまつわる文章や写真を発信している。