バッドエンドに花束を/ぽんずのみちくさ Vol.46
トーンの明るい写真を撮ることが多いので、見た方から「明るそう」「やさしそう」と言っていただけることが多い。そうやって想像してもらえること自体は嬉しいしありがたいけれど、じつのところ、写真のトーンとその人の性格にきっと相関性はない。少なくとも私の場合は、全然ない。
昔から、大団円の明るいハッピーエンドよりも、後味の悪い映画が好きだった。観終わったあとにモヤモヤが残るような、重めのお土産を持たされるような作品。
そういう映画を観たいと思う心の奥にある気持ちは、「怖いもの見たさ」だったのだと思う。スクリーンの向こうがわの人物がどんな散々な目に遭っていても、それは私の人生ではない。エンドロールの時間に感じる気持ちは、とんでもない悪夢を見て目が覚めて、「ああ、なんだ夢だったのか」とほっとするときのそれに似ていた。
「似ていた」と過去形で書いたのは、最近になって、バッドエンドの捉え方が変わってきたからだ。
たとえば恋愛映画の場合、主役の二人が添い遂げる(そしてその関係が永続することを予感させる)エンディングを「ハッピーエンド」と呼ぶのならば、二人の道が今後二度と交わらないと思わせるエンディングが「バッドエンド」に当たるだろう。
数年前の私は、それをただ「他人事」として、悪い夢を眺めるような気持ちで観ていた。
たとえば初めて「ラ・ラ・ランド」を観たときもそうだった。ああ、二人の未来はもう交わらないんだ。曲の美しさに酔いしれつつ、頭の中ではどこか冷静にそんなことを思っていた。
だけど最近は違う。
嬉しくなるのだ。バッドエンドの物語に出会うと、「それでも大丈夫だよ」と言ってもらえてる気がして。
ハッピーエンドの物語ばかり見ていると、なんだか自分もハッピーエンド的生活を送らなきゃいけない気がしてくる。登場人物に対しては「よかったね」と思うのに、勝手に自分をかえりみて寂しい気持ちになる。
その点、バッドエンドには優しさがある。大切なのは、ミアとセブが「永遠に」一緒にいるかどうかじゃない。未来がどうなろうと、一緒にいた時間が消えるわけではない。たとえ二度と会うことがないとしても、その人に「出会う人生」と「出会わない人生」だったら前者のほうがずっと豊かだ。そう思える相手に出会えたことを、幸福と言わずしてなんと呼ぶのか。
一緒に歩まなくても、それぞれが宝物を抱えて歩いて行く未来がある。そんな結末は、きっと「バッド」でも「エンド」でもない。
ぽんず(片渕ゆり)
1991年生まれ。大学卒業後、コピーライターとして働いたのち、どうしても長い旅がしたいという思いから退職。2019年9月から旅暮らしをはじめ、TwitterやnoteなどのSNSで旅にまつわる文章や写真を発信している。