横木安良夫(よこぎ あらお)
フォトグラファー 1949年、千葉県市川市生まれ。日本大学芸術学部写真学科卒業。アシスタントを経て1975年フリーランスの写真家として独立。広告、エディトリアル、ファッションなど様々な撮影を担う傍ら、自身の日常も勢力的に撮影。2015年、ストリートフォトを撮影し、Amazon Kindle版の電子書籍写真集を制作するワークショップ「CRP CROSSROAD PROJECT」を開始。現在150人以上が参加、300点以上の写真集が出版されている。
あの日の彼 あの日の彼女 1967-1975
名犬ラッシーにスーパーマン。僕はアメリカ文化にどっぷり浸かった世代。福生は紛れもなく憧れのアメリカだった
1967 YOKOTA FUSSA TOKYO
福生 横田基地正面ゲート
18歳、大学1年の冬に初めて訪れ興奮した
そこは紛れもなく憧れのアメリカだった
1967 YOKOTA FUSSA TOKYO
福生 米軍ハウス
この頃の福生は、家族連れが多かった
横田でピザ食って。デートコースでもあった
1970 YOKOTA FUSSA TOKYO
福生 米軍ハウス前
星条旗。スーパーマンはこの旗を守っていた写真家ROBERT FRANKへのオマージュ
1967 YOKOTA FUSSA TOKYO
福生 米軍ハウス
いすゞベレット。ベレットGTが好きだった。子どもたちは皆陽気だ。すぐに仲良くなった
1967 YOKOTA FUSSA TOKYO
福生 米軍ハウス
土門拳の「江東のこども」か!
あの頃は、子どもたちと10歳違いぐらいだった
僕は何も見えていなかった。これは僕が吸った空気、あの日一日、若く生きた気分の記録
ガールフレンドが茅ヶ崎に住んでいた。ボロい車で会いにいった。夏の海は明るく、声をかければ皆がポーズしてくれた
1973 SHICHIRIGAHAMA KANAGAWA
湘南 七里ヶ浜 黒い水着の女
夏の海は誰もが明るかった。写真も自由に撮れた。声をかければ皆ポーズをした
1974 SHICHIRIGAHAMA KANAGAWA
鎌倉 七里ヶ浜駐車場
古いワーゲンのバンに乗る若者たち
ボロでも、車は必需品だった
1974 ENOSHIMA KANAGAWA
江の島 キリスト教の布教
僕が通っていた幼稚園のクリスマス降誕劇で
ヨセフと三賢者を演じたことがある
1969 BOSO CHIBA
南房総
毎年夏になると家族で千葉の海に行った
この頃はいつでもカメラを持っていた
ここに掲載したのは、僕が、18歳から26歳までの間に撮った写真——。
僕はずっと日常を見て撮ってきた。父親が新聞社の記者で、ジャーナリズムっていうのが好きじゃなかった。作られたその裏側も知っていたから、写真に問題意識を重ねる報道写真のようなことはしたくなかった。福生の写真も、学生運動のデモの写真も、仕事で俳優を撮るときでも、ただ僕はそれが見たくて、そこにいて、心に留まったものを撮っている。その視点は今も変わっていない。
この写真の時代、泥臭い部分ももちろんたくさんあったけど、それでも社会全体のセンスが良くて、人はかっこよかった。アートは醜いものも美しいものも等価だけど、かっこいいって、やっぱり表現のスタートだと思う。僕はかっこいいと思うものを撮っていて、それは僕が思っているんじゃなくて、撮られる側がそう思って街を闊歩していた。ずっと昔は服装だって自由がなかった。女性が肌を露出することなんてできなかった。ファッションは民主主義で勝ち得た自由。自由な恰好をして、見せる自由と、見る自由が僕らにはあって、ただそれを撮ってきた。
写真集にまとめたのはずっと後になってからだけど、振り返ると『けっこう撮れてんな』と思った。写真にもビギナーズラックがあるんだなって。
写真にルールを決めるのが嫌。写真をつまらなくしてしまうのは、最初にルールを決めてしまうこと。
持論だけど、絵画とは違って、写真に関しては構図って被写体側にあるものだと思う。ビルだってなんだって、でたらめではない。だから心に留まったものにただカメラを向けて、フレーミングすればいい。
上手く撮ろうとしないで、理屈じゃなくて本能で。自分を解放して撮ると、それはすごく写真のためになる。
ストリートスナップって、スリリングだよね。撮りたいって思った人が強面のやくざだったこともある。ドキドキしながら『撮ってもいいか』と聞くと、意外と快く撮らせてくれたりして。夏の海で声をかけて撮った女性の家へ、後日ヌードを撮らせてもらいに行ったこともあった。部屋に男性のジャケットがかかっていて、怖くなって逃げてさ。ストリートフォトって、人との接点ができて世界が広がっていくもの。だから、あと必要なのは覚悟だけ。スカートの中を撮るとかって犯罪でなければ、あとは個人の自由。目に見えているものは撮ればいい。写真を撮ることは見ることと変わらない。今は肖像権とかもうるさいけど、自分で決められることが少ない今の世の中なんだから、シャッターボタンを押すことくらい自分で決めればいいよね。
現代の弱点は、撮って選んで形にするのが苦手なところ。写真て、その場で撮って、選んでいるときにもまた撮っている風になる。今ってなんでもかんでもどんどん流れていっちゃうから、自分で選んで、1冊にまとめたほうがいい。電子写真集はすごく簡単に作れる。そうしてまとめていくことで、記憶にも残っていくものだから。
ファッションは自由だった。見せる自由と、見る自由があった。僕はかっこいいと思っているものを撮っていた。僕じゃなくて、撮られる彼らが思ってる
1975 KITA AOYAMA TOKYO
港区 北青山3丁目バス停
この頃長い間、青山通りは鉄板道路だった
半蔵門線の工事中
1972 ROPPONGI TOKYO
港区六本木 篠山紀信の
アシスタントを始めた年
左側が六本木ハンバーガーイン
右側は今でもある六本木麻布青野総本店
1968 HONGO TOKYO UNIV. TOKYO
文京区本郷 東京大学
11.22 全国学生総集会。ヘルメットとマスク以外、僕も同じような服装
1972 GINZA TOKYO
中央区銀座
アメ車に乗り主人を待つ運転手
まだアメ車がカッコよく思えたけど
1971 GIRLFRIENDS YOKOHAMA
横浜 新山下 引き込み線
フランシー、ジュリー、アイリーン
ファッション写真のように
1972 DOUGENZAKA SHIBUYA TOKYO
渋谷区道玄坂
歩行者天国は渋谷も始まっていた
この頃の高校生は素朴だ
1975 KITAAOYAMA TOKYO
港区 青山通り 246号
ユアーズの向かい、高桑ビル615室から
ここのケンタッキーはかなり古い
1971 GINZA TOKYO
中央区銀座4丁目
歩行者天国
三愛ビル、森永の広告
1974 OMOTESANDO TOKYO
渋谷区 原宿 表参道
まだケヤキ並木が華奢だ
反対側にキデイランドが見える
『あの日の彼 あの日の彼女 1967-1975』
GENIC vol.63 【あの日の彼 あの日の彼女 1967-1975】
Edit:Chikako Kawamoto
GENIC vol.63
GENIC7月号のテーマは「Street Photography」。
ただの一瞬だって同じシーンはやってこない。切り取るのは瞬間の物語。人々の息吹を感じる雑踏、昨日の余韻が薫る路地、光と影が落としたアート、行き交う人が生み出すドラマ…。想像力を掻き立てるストリートフォトグラフィーと、撮り手の想いをお届けします。