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みちくさの終わりと小さな始まり/ぽんずのみちくさ Vol.87

片渕ゆり(ぽんず)<連載コラム>毎週火曜日更新
ほんとに大切にしたい経験は
履歴書には書けないようなことばかり
旅と暮らすぽんずが送るコラム

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みちくさの終わりと小さな始まり/ぽんずのみちくさ Vol.87

壁の時計は15時42分を指している。タイムリミットまで、あと18分。

パソコンの前で、早鐘のように打つ心臓をなだめながら、画面を見つめていた。1回クリックするだけでいい。頭ではわかっていつつ、勇気が出ない。すでに何度も指差し確認したはずの画面を、もう一度上から下までスクロールする。

すこし時間を戻そう。

この2年弱、毎日のたうちまわっていた。コロナをきっかけに、自分の中で無数の「こんなはずじゃなかった」が生まれた。

払い戻しのきかない航空券。夢にまで見たのに行くことのできなかった場所。使われることのなかったチケット。とうとう実行できなかった仕事。これからの人生と可能性を賭けて計画したものが、泡のように消えてしまった。当然、生活だって苦しくなった。

「悲しいより悲しいのは、ぬか喜びです」というのはドラマ「カルテット」の台詞だけど、本当にそうだと思った。

こうしてちゃいけないと思って、新しい仕事にも挑戦してみた。新たな趣味を開拓したり、勉強してみたりもした。こういう状況でなければ出会えなかった人との出会いもあった。日々の生活の喜びも、以前よりずっと深く感じるようになった。手をかければかけるほど、部屋は住みやすくなった。

それでもやっぱり、時が止まってしまったような感覚は、常に通奏低音として横たわっていた。その状態の中では、自分の中の喜怒哀楽の振り幅が、狭くなったような気がしていた。

先の未来に期待するのが怖い。何かを「楽しみだ」と思うことが怖い。期待すればするほど、ぬか喜びの辛さを味わうことになる。楽しいのに、どこか他人事のよう。悲しくても、どこか麻痺しているようで、真正面から捉えられない。目の前の景色が綺麗だなと思っていても、カメラを構える気力がどうにも湧いてこない。

そして話は、現在に戻る。

15時54分。そろそろ本当に、腹を決めなければ。ここを逃すと、仮予約が無効になってしまう。ぽちっと浅いワンクリックで、画面は遷移する。

「席が確定しました」

30分近く画面を見つめたのち、ようやく、トルコ・イスタンブール行きの片道チケットを手に入れたのだった。

安堵のため息をついた次の瞬間、悲鳴を上げた。緊張のあまり、座布団と間違えてiPadをお尻の下に敷いていたことにやっと気づいた。道理で座り心地が悪いわけだ(カバーのおかげで、本体は無事だった)。

そういうわけで、長い長い「一時帰国」を終え、ふたたび外に出ることにした。以前のような気ままな旅は難しいだろうし、旅というよりは短期移住に近い形になるのかもしれない。わざわざリスクを取って、滑稽なことをしているように映るかもしれない。やっぱりまた「ぬか喜び」に終わるかもしれない。

それでもいい。実感しているのだ。航空券を取った瞬間から、喜怒哀楽の幅が戻ってきたことを。腹の底から湧いてくる「楽しみだ」という感覚を。たぶん、時計は動き始めたのだ。

片渕ゆり(ぽんず)

1991年生まれ。大学卒業後、コピーライターとして働いたのち、どうしても長い旅がしたいという思いから退職。2019年9月から旅暮らしをはじめ、TwitterやnoteなどのSNSで旅にまつわる文章や写真を発信している。

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