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夢と現(うつつ)の狭間にある博物館/ぽんずのみちくさ Vol.93

片渕ゆり(ぽんず)<連載コラム>毎週火曜日更新
ほんとに大切にしたい経験は
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旅と暮らすぽんずが送るコラム

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夢と現(うつつ)の狭間にある博物館/ぽんずのみちくさ Vol.93

誰もが名前を知るような、子どもの頃から幾度も教科書で名前を見てきたような、大きな美術館・博物館へ行くことは、多くの人にとって観光の目玉といっていいだろう。私にとってもそうだ。ずっと写真でしか見たことのなかった絵画が、実物として目の前にあらわれる瞬間の胸の高鳴りは、何度体験しても良いものだ。

一方で、ガイドブックの後ろのほうのページに、ひっそりと載っているような小さな美術館・博物館へ行くおもしろさも大人になってから気づくようになってきた。

そんなふうに、全然知らなかったのに気になってしまったもののひとつが、イスタンブールにある小さな博物館だった。

「無垢の博物館」。Googleマップ上でひときわ異彩を放っていた、そのユニークな名前に目を惹かれ調べてみると、同名の小説をもとにして作られた場所だということを知った。

せっかくなら、トルコにいるうちにこの小説を読んでみよう。電子書籍をiPadにダウンロードすれば、ものの5分もたたずに読める状態になった。出国後にも日本語の書籍が簡単に手に入る、なんて便利な時代だろう。

作者のオルハン・パムークはノーベル文学賞を受賞していて、小説の紹介文にも真っ先にそのことが書いてある。高尚なお話が展開されるのかと身構えたけれども、そんな心配は無用だった。冒頭のあらすじはこんな感じ。

主人公のケマルは30歳。会社では社長を務め、美しく気立てのよい恋人との婚約も決まっている。誰の目から見ても順風満帆な彼の人生を狂わせたのは、遠い親戚にあたる18歳の娘、フュスンとの再会だった──。

少女漫画……いや、昼ドラかな?というメロドラマ展開。ドラマだったら、放送後にSNSが荒れそう。急速に近代化し変わりゆくイスタンブールへの郷愁と、愛情という名目のもとに常軌を逸していく主人公の危うさとに翻弄されながら、気づけば夢中で読んでいた。

エスカレートしたケマルは、次々とフュスンに関わるものを収集するようになる。彼女が受験勉強で使っていた定規、彼女の家の置き物、果てには彼女の吸ったタバコの吸い殻まで。そう、この愛と狂気の入り混じった膨大なコレクションを展示しているのが、実際にイスタンブールにある「無垢の博物館」なのだ。

小説という架空の世界の中で語られたものたちが、実際に形を伴って、現実の世界に博物館として存在している。エッシャーの絵のような、不思議なねじれがそこにある。

小説の中には、博物館のチケットが印刷されているページがある。紙の本を持って訪れた人には、ハンコが押してもらえるらしい。このときばかりは、今すぐ紙の本が手元に欲しいと思ってしまった。出版された当時は「架空」のチケットでしかなかったページが、その後、ほんとうに博物館が完成したことで「本物」の入場券になった。

来館者のほとんどは片手に小説を抱え、物語の中のページと、目の前の展示物を突き合わせながらゆっくりと進んでいく。

例の無数のタバコの吸い殻も、壁一面に並べられて圧倒的な存在感を放っている。アクセサリーや洋服、広告、日用品などがびっしり並んでおり、物語を知らずとも、ひと昔前のトルコの暮らしを知って楽しめるようになっている。日本でいう「昭和レトロ」なものを眺める感覚に近いのかもしれない。

博物館の外へ出れば、また日常が広がっている。館内で見たものは紛れもない現実だったのに、どこか夢から醒めたあとのような、ふわふわした心地になる。夢と現実のはざまは、意外と曖昧なのかもしれない。

片渕ゆり(ぽんず)

1991年生まれ。大学卒業後、コピーライターとして働いたのち、どうしても長い旅がしたいという思いから退職。2019年9月から旅暮らしをはじめ、TwitterやnoteなどのSNSで旅にまつわる文章や写真を発信している。

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