何かひとつ新しいこと/ぽんずのみちくさ Vol.74
最近、一週間にひとつ、新しいことにチャレンジするようにしている。新しいことと言っても、大層なことではなくて、たとえば「海外のサイトで文房具を買ってみる」とか「読んだことのないジャンルの本を読む」とか、手の届く範囲のささやかな試みばかり。他人から見れば小さなことでも、私にとっては小さな冒険である。
というわけで、先日の「新しいこと」の話を。
生まれて初めて、献血をした。
実を言うと、過去にも献血ルームに足を運んだことはあった。しかしそのときは条件が合わず、献血はできなかった。それ以来、「また今度行こう」という気持ちが宙ぶらりんになったまま、気づいたら月日が過ぎていた。
そんな8月のある日、仕事の帰りに献血ルームのプラカードを持った人を見かけた。今日、このあと予定はない。絶好のチャンスじゃないか。注射針を見るのは苦手だが、この夏はワクチンも打つのだ。「二度あることは三度ある」ではないけれど、二度も三度も大差はなかろうと自分に言い聞かせながら受付へ向かった。
「初めての献血です」の旨を書いたカードを受け取り首から下げ、好きなジュースを飲みながら順番を待つ。まわりを見渡すと、いかにも献血慣れしていそうな人たちばかりで、みな思い思いにリラックスしている。なんだか空港のラウンジを思い出す。ラウンジに居る人々はいつも落ち着いて見える。窓から見える飛行機に興奮気味なのは自分だけなので、毎度少し恥ずかしくなり、冷静にふるまえるように努力しなきゃいけない。
と、ぼんやりしていたらすぐに呼ばれ、あれよあれよという間に私の番になった。こんなふうに、慣れたプロたちの手でテキパキと流されていく時間が私は好きだ。同じ理由で、健康診断や、空港の保安検査なども好きだ。自分は何もしてないのに、次、次、とすごろくのように進んでいけるのが気持ち良い。
すっかり楽しくなっている私の腕をふにふにと押しながら、「わぁ!柔らかいですね」と看護師さんが微笑んだ。献血において「柔らかい血管」が褒め言葉なのかそうでないのか、初心者の私にはわからなかったけれども、都合よく前者なのだと思うことにした。
いよいよ針が刺さる。だけど痛いのは一瞬で、そのあとはなんだか暖かいような不思議な感覚だけが続いた。無事に採血が終われば、あとはゆっくり休憩して帰るだけ。
休憩場所でのんびりお茶を飲みながら、ふと思う。辛いニュースが飛び交い、少し先の未来もあやふやで、達成感よりも無力感を感じることのほうが多い日々の中で、今日は「誰かの役に立てた」と思える日になった。受付でも問診でも採血でも、どの場所でも「ありがとうございます」と言ってもらった。オフラインで人と会う機会が激減した今、面と向かってこんなにたくさん「ありがとう」を言われるなんて、いつぶりだろう。
今回の「新しいこと」は、大成功だった。右腕の止血パッチをなんだか少し誇らしく思いながら、帰路についた。
片渕ゆり(ぽんず)
1991年生まれ。大学卒業後、コピーライターとして働いたのち、どうしても長い旅がしたいという思いから退職。2019年9月から旅暮らしをはじめ、TwitterやnoteなどのSNSで旅にまつわる文章や写真を発信している。