感覚を広げる料理/龍崎翔子のクリップボード Vol.53
ある時から、自分の舌は美味いものしか食べていない、とんでもない軟弱者なのではないかと思うようになった。思えば、自分がこの世に生を受けたわずか数十年の間にも農作物の品種改良もコンビニ飯の商品開発も進み、私の味蕾は『旨い』以外のベクトルを向いた味わいを受容できていないのではないか。小学生の頃の通学路で吸ったツツジの花の蜜も、校庭に落ちていたソメイヨシノの実も、どんな味だったか薄い靄がかかったような遠い記憶になってしまった。
真冬の沖縄で、とある移住者が運営している畑を見学したことがある。いくつもの畝が続く農園では、見たことがないような植物が育てられていた。気になるものは少し摘んで食べていいですよ、というので葉をぷちっとちぎって口に放り込むと、青くて爽やかな香りが口の中に広がった。しばらくして、よくよく話を聞くと、本来は花を食べる植物らしかった。間違って葉っぱを食べてしまいました、というと、シェフの方が見学に来る時も色んなものをとりあえず口に入れているから大丈夫、とのことだった。実が商品だったとしても、花や葉が意外と美味しかったりするのはよくあるから、と。
また、大阪の田園地帯にある農家懐石とでもいうべき店に行った時だった。目の前に出された木の料理箱には、トロロアオイの花というのだろうか、黄色い大きな花弁を携えた花が端っこの方にちょこんと乗っかっていた。この花びらで他の素材を包んで食べよ、ということらしかった。花びらをがくから外しながら、北海道に住んでいた頃の道端でよくこんな感じの花を見かけたな、と思った。あれはハマナスだったか、あの花びらは一体どんな味がするんだろうか。
私たちはいつの間にか、スーパーに綺麗に並べられている野菜や果物だけが食べ物だと思い込んでいるようだった。ツヤツヤのトマトの味はなんとなく想像できるけど、そのヘタや、葉っぱや、花の味は知らない。美味しいか美味しくないかはさておき、私には口があって、歯があって、舌がある。口に入れれば、それはもう食べ物なのである。心身の健康に関わるからだろうか、味覚は五感の他と比べて「快」が保証されすぎていると思う。狭い見識の中で美味しいと保証されているものじゃなくて、自分の感覚をぶち広げていくものを食べたいと、ふつふつと思うようになった。
京都の木屋町の路地裏にあるその店は、薄暗くて見るからに妖しげだった。随所に古びた骨董品が鎮座し、テーブルの上では灯明皿の火影が踊っていた。恭しく供された一杯のお酒を一口飲むと、お寺を思わせるような香りが鼻腔内に広がった。お品書きを見ると、「ビーツ、きのこ、古木、屋久杉、古酒、ジン」と書かれていた。腕にびっちりとタトゥーが入ったマスターが、骨董市で手に入れた家具の削りかすの香りを抽出した、と事もなげに言った。私たちは顔を見合わせ、感激に打ち震えた。
感覚をぶち広げる料理を食べたい。脳が食べ物だと認識していないものを食べ、味わったことのない香りを知りたい。PCを舐めたり、机をしゃぶったり、本をかじったりしたい。それが美味しいかどうかはさておき、今まで身につけてきた偏見のコレクションから自らを解き放ち、脳に未知の刺激を与えることが、自分の精神世界を豊かにするような気がしてならない。
龍崎翔子
龍崎翔子/SUISEI, inc.(旧:株L&G GLOBAL BUSINESS, Inc.)代表、CHILLNN, Inc.代表、ホテルプロデューサー
1996年生まれ。2015年にL&G GLOBAL BUSINESS, Inc.を設立後、2016年に「HOTEL SHE, KYOTO」、2017年に「HOTEL SHE, OSAKA」を開業。
2020年にはホテル予約システムのための新会社CHILLNN, Inc.、観光事業者や自治体のためのコンサルティングファーム「水星」を本格始動。
また、2020年9月に一般社団法人Intellectual Inovationsと共同で、次世代観光人材育成のためのtourism academy "SOMEWHERE"を設立し、オンライン講義を開始。2021年に「香林居」、2022年に「HOTEL CAFUNE」開業。