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旅と手帳/龍崎翔子のクリップボード Vol.60

龍崎翔子<連載コラム>第2木曜日更新
HOTEL SHE, 、香林居、HOTEL CAFUNEなど
複数のホテルを運営する
ホテルプロデューサー龍崎翔子が
ホテルの構想へ着地するまでを公開!

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旅と手帳/龍崎翔子のクリップボード Vol.60

三日坊主として世界的な権威をもつ者こと私であるが、驚くべきことに中高時代は実に綿密に日記をつけていた。毎年の暮れに必ず最新の手帳を買い、不毛な片思いに明け暮れていた中学時代は何やらささやかな日常ドラマの記録を、受験戦争に奔走していた高校時代は日々の学習の成果やら己を鼓舞する言葉やらを書き連ねていたように思う。

そんな聡明な少女が大学に入学しスマホを手にするや否や、140字の活字刺激と☆で分泌されるドーパミンの奴隷と成り果てたのは、ある種の現代の悲劇と言っても過言ではない。

それでも、大学在学中は板書を取るべくノートにペンで何かを書き留める習慣はあったのだが、卒業後はそれすら影かたちもなくなった。本はKindleで読み、iPhoneのデフォルトアプリのメモは1000を超え、ノートはNotionで、アイディアはSNSに書いてそのまま垂れ流した。それは出張の多い私にとってはすこぶる快適なことだった。スマホひとつでどこへでも行ける、そんな身軽な生活を愛していた。

そんな私への、恋人からの27歳の誕生日プレゼントはティファニーのボールペンと日記帳だった。かねてより紙の本を読み、紙のノートに何やらむつかしい顔をして何かを書き留める生活をしていた恋人は、私に紙に字を書く習慣を取り戻してもらいたいようだった。さすがに国際的に三日坊主として著名な私も、この時ばかりは心を入れ替えて、2週間ほど日記を書き続け、やがて日記帳は1DKの混沌へと飲み込まれていった。

豊島美術館に初めて行った時のことである。曲線を描くコンクリートの空間の中にポッカリと空いた丸い天窓、そこから射しこむ光と、地面の水滴。それらはやがて生き物のようにうごめきながら流れ出して、水たまりの一部となった。この一部始終を見ていた、私の少し前にいた韓国人のカップルの、眼鏡をかけた彼氏が、目を輝かせながらスケッチブックを取り出して、地面に這い蹲りながら鉛筆を走らせた。その様子を、腕に花束のタトゥーを入れた彼女が眺めていた。

私は彼のスケッチブックを覗きたくて仕方がなかった。話しかけて見せてもらおうかという衝動を抑えながら、さも関心がないかのように辺りをふらふらと歩いてみたり、コンクリートの地面に寝っ転がってみたりした。ひととおりの姿勢を試してもうそろそろいいかなという気持ちが湧き始めた時、ふと後ろを覗くとそのカップルはまだ同じところでスケッチブックに向き合っていた。その光景を見ながら、私はなんて素晴らしい旅先での過ごし方なんだろう、とひとり感銘を受けた。

思えば、幼い頃に行った動物園でも、大学の銀杏並木の端にも、ゴッホ展の片隅でも、スケッチブックを手にしている人を見かけたことはあった。以前の私は、きっと絵を描くのが趣味なんだろうなとか、撮影禁止だから代わりにスケッチするんだろうな、などと思い、特に気に留めることもなかった。

でも、思うのである。旅先で美しい景色を見た時、感銘を受ける場面に遭遇した時。その空間に存分に浸るのは意外と難しい。そんな時に、手元にスケッチブックがあったなら。写真でありのままを一瞬で切り取るのもいいけど、自分が目にした光景や感覚を、時間をかけて紙になぞりながら確かめていく、そんな対話するような過ごし方こそが、全感覚を通じて外界を感じ取る手段なのかもしれない。

私がふむふむとか言いながらわかった気になって忙しなく一瞬で通り過ぎる一角に、何十分も何時間も滞在しながら何かを描き、生み出すことはどんなにか贅沢な時間だろうか。

そう感じてすぐさま、豊島のギャラリーショップに駆け込んでスケッチブックを買った。

数日後の近江舞子の湖畔で、大粒の砂利浜に腰を落としながら、私はスケッチブックを開いていた。琵琶湖のさざなみと、風の音と、水上バイクの走行音と、遠くのBBQ場の喧騒が広がっていた。絵は正直あまり上手くないのだが、人に見せるものでもないのでこれでいいのだ。いつもなら一瞬で通り過ぎる場所に腰かけ、光や風や砂のざらつきを肌に感じ、じっくりと湖や空や砂浜の色を観察することが何よりもの贅沢なのだから。

正直なところ、このスケッチブックもまた近い将来、京都の片隅のマンションに潜むブラックホールに吸い込まれていくだろう。でも、小学校の校長先生が、いつか全校朝礼で言っていた。三日坊主でいいんです、と。三日坊主を何度でも繰り返せば、それは継続していることになるのだから。

龍崎翔子

龍崎翔子/SUISEI, inc.(旧:株L&G GLOBAL BUSINESS, Inc.)代表、CHILLNN, Inc.代表、ホテルプロデューサー
1996年生まれ。2015年にL&G GLOBAL BUSINESS, Inc.を設立後、2016年に「HOTEL SHE, KYOTO」、2017年に「HOTEL SHE, OSAKA」を開業。
2020年にはホテル予約システムのための新会社CHILLNN, Inc.、観光事業者や自治体のためのコンサルティングファーム「水星」を本格始動。
また、2020年9月に一般社団法人Intellectual Inovationsと共同で、次世代観光人材育成のためのtourism academy "SOMEWHERE"を設立し、オンライン講義を開始。2021年に「香林居」、2022年に「HOTEL CAFUNE」開業。

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