旅と一服/龍崎翔子のクリップボード Vol.58
幼少期より母親に仕込まれた嫌煙教育の成果が結実し、私は警察犬のように彼氏を嗅ぎ回っては喫煙の痕跡を発見し、現場を押さえ、咎めてまわる成人女性へと成長した。
ただのしがない大学生だった頃は、背徳感とか、連帯感を楽しむために、壁がヒタヒタに結露するくらい飽和水蒸気量を超える呼気が吐き出される不快指数100%の喫煙所に詰めかけたりした時期もなくはなかったのだが、やがて大人になるにつれてその類の刺激と興奮は次第に色褪せていった。かわって、道端で、居酒屋で、街角で、ニコチンの奴隷たちを見かけるたびに、無意識に冷たい氷のような視線を投げかけて過ごす時間が次第に増えた。
人は手持ち無沙汰にならないようにするために、常に何かを手に持っていたいという習性があるのだ、という話を以前誰かに聞いた。曰く、それゆえに、古代に思いを馳せれば聖徳太子の肖像画は笏を手にしているし、絵巻物の中の平安貴族や油絵に描かれたヨーロッパの貴婦人たちは扇やら扇子やらをいつも口元に当てているような気がするし、近代やそれこそつい数十年前の映画やドラマを見れば登場人物がパイプや煙草を片手に過ごしているのが極めて普通で、そしてそういった手遊びの対象が現代ではスマホに置き換わっているのだ、と。つまり、スマホが煙草を殺した、と、そういう話である。
シーシャが好きだった時期があった。ぷくぷくと水面を泡立てながら深く息を吸い、天に向かって水煙を吐き出す。真っ白で濃厚な煙が、生き物のように姿形を変えながら口から吹き出て、やがて辺りを漂いながら静かに空間に溶けていく。ただの深呼吸が、泡と煙になって可視化されるのが不思議で、いつまでも眺めていた。ソファに身体を埋めながら、何を話すでもなく、ただ仲間たちとシーシャを吸う。それは、誰かと一緒にいる時は間が生まれないように会話を繋げ続けないといけないという呪縛から私たちを解き放つ、合法的な沈黙でもあった。
「どうか呼吸を止めないで」とその人は言った。北海道の山奥の古びたホテルで、整体師の方が、呼吸の大切さを説いていた。人は無意識に息を止めてしまうのだという。集中している時、緊張している時、急いでいる時、社会生活はいつも呼吸を止めるシチュエーションで溢れかえっている。だからこそ、意識的に深呼吸をし、酸素を体内に行き渡らせることが、身体と心を整えるのだと。
煙草は、呼吸を可視化するものなのだと思うようになってから、旅をする時、ふと一服したいなと思うことが増えた。美しい景色の中に在る時、風景をスマホに収めるでもなく、ただその光景の中に浸っていたい思うように、高揚感の中で友人と居る時、会話のキャッチボールを続けるでもなく、時間を共有している感傷をただ分かち合いたいと願うように、煙草を片手に、息を吸う、息を吐く、そんな当たり前の生命活動の輪郭を際立てることが、自分がそこに在り、自分たちがそこに居るというただそれだけを享受するための手段なのだと思うようになった。
ひとりで歩く夕暮れの那覇の街角も、キャンパスの校舎の屋上で友達と眺める東京タワーも、恋人と散歩する深夜の七里ヶ浜も、スノボ終わりの人気のない雪山も、行列待ちの夜の京都の街中華も、そこに在るその瞬間を切り取るように煙草を吸う。スマホを手放して、会話を途切れさせて、ただそこに居ることを享受することができる、贅沢な時間なのである。
龍崎翔子
龍崎翔子/SUISEI, inc.(旧:株L&G GLOBAL BUSINESS, Inc.)代表、CHILLNN, Inc.代表、ホテルプロデューサー
1996年生まれ。2015年にL&G GLOBAL BUSINESS, Inc.を設立後、2016年に「HOTEL SHE, KYOTO」、2017年に「HOTEL SHE, OSAKA」を開業。
2020年にはホテル予約システムのための新会社CHILLNN, Inc.、観光事業者や自治体のためのコンサルティングファーム「水星」を本格始動。
また、2020年9月に一般社団法人Intellectual Inovationsと共同で、次世代観光人材育成のためのtourism academy "SOMEWHERE"を設立し、オンライン講義を開始。2021年に「香林居」、2022年に「HOTEL CAFUNE」開業。