機能とヴィジュアル、ものを選ぶときの基準/市川渚の“偏愛道” Vol.16
東京は、再び、なんだか外出しづらい状況になってきてしまったこともあり、相変わらず自宅中心の毎日を送っている。
先月メインのPCを買い替えたこともあって、最近はワーキングデスク周りの周辺機器を買い足したり、レイアウトを変えたりして理想形を探っていた。それも、ようやく理想のかたちに近づいた感。
ディスプレイ、マイクなどの周辺機器を1本のケーブルで繋げることができるようになったのだ。何か高度なことをしているわけではなく、Amazonで数千円程度で購入できる、こんな感じの小さなUSB-Cハブを一つ導入するだけ。
iPadにも繋がるので、インターネットラジオ配信「stand.fm」の収録時もケーブルを1本iPadに差し替えるだけですぐに収録が始められるようになって、便利だ。昨今オンラインミーティングは基本的にミラーレスカメラをPCに繋いで出席していて、ケーブルがごちゃごちゃしたり、セッティングに時間が掛かってしまうのが難点だったのだけれど、今の装備とレイアウトにしてからはHDMIケーブルでカメラを繋ぐだけで始められるようになり、とても楽になった。
私はケーブル類を全てデスク背面や側面に添うようにしてレイアウトし、USB-Cハブ自体はデスクの下に張り付けて使っている。本当は海外のクラウドファンディングサイトで購入した立派なUSB-Cドックが届いたばかりだったのだけれど、想像していた色と違っていて(シルバーかと思っていたら、スペースグレーだったのだ……)デスクの上に置くと違和感しかなかったので、前出の小さなUSB-Cハブを買い直した。結果私の使い方であれば、これで十分だったこともわかり、満足している。
そういえば、最近“ものを選ぶ基準”について会話をする機会が何度か重なり、それらの多くが「機能性重視、ヴィジュアル重視、どちらか?」という質問から話が始まっていたことが印象に残っている。
機能性に秀でたものに興味が湧かないこともないが、「自分の手元に置きたいか?」いざ自分ごとにしようとすると、途端に触手が伸びなくなる。無駄を省き、機能性だけを追い求めることについて、どうも「味気ない」と思ってしまうのだ。食を例にしてみると「これを食べるだけで、人間が健康に生きていく上で必要な栄養素が摂取できます。」と言われても、なんだか心動かされない。(もちろんそういったことに心が動かされる人もいるわけで、それを否定する気はない。ものを選ぶ上で重要視する点なんて、人それぞれで良いのだから。)
一方、ヴィジュアル重視という要素を紐解いてみると、見た目にだけ偏重したものにも、あまり心踊らされない。「デザイン雑貨」「デザイナーズマンション」ときくと、カッコいいけれど、ちょっと使いづらくて、見た目だけ重視したものというようなイメージを持ってしまう。可愛い、カッコいい、お洒落、だけでは納得できないのだ。
どちらも高いレベルで譲れないから、機能性とヴィジュアル−“たたずまい”という言葉が1番しっくりくる−を天秤に掛けたとき、どちらにも偏らずバランスが取れたものであるかどうか、ということが、おそらく私の場合のものを選ぶ基準になっている。端的に言えば“よくデザイン”されたものが好き、ということだ。
“よく”というのは、熟考されて優れているという意味の“良く”でもよいし、道徳、倫理的に正しいという意味での“善く”にもなる。自分にとってそのものの性質や状態が好ましい=“好い”ということもあるだろう。
そして、この場合の“デザイン”とは見た目や表現といった狭義のデザインではなく、広い意味でのデザイン。機能性、佇まい、得られる体験や感情など、そのものの設計と表現が互いを支え合うかたちで成り立っていること、という言い方ができるかもしれない。
冒頭で書いたワーキングデスクの環境についても、自分で言うのは恥ずかしいけれど、ある意味、よくデザインされている、と言えるのではないかと思う。
そんな感じで自分の中でのIN or OUTが非常に明確なので、何かものを手に入れようとするとき、自分の触手が伸びるものを見つけるためには、ものすごく時間的コストがかかる。面倒さもある一方で、おいそれと自分が納得がいくものが見つかるわけでもないので、結果的に無駄な買い物を減らすことに繋がっていたりするのかも、などと思ったり。
こだわりが強すぎるのも、一長一短である。
市川渚
1984年生まれ。N&Co.代表、THE GUILD所属。
ファッションとテクノロジーに精通したクリエイティブ・コンサルタントとして国内外のブランド、プロジェクトに関わっている。自身でのクリエイティブ制作や情報発信にも力を入れており、コラムニスト、フォトグラファーやモデルとしての一面も合わせ持つ。