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うどんと忠誠心/ぽんずのみちくさ Vol.64

片渕ゆり(ぽんず)<連載コラム>毎週火曜日更新
ほんとに大切にしたい経験は
履歴書には書けないようなことばかり
旅をおやすみ中のぽんずが送るコラム

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うどんと忠誠心/ぽんずのみちくさ Vol.64

もう数年も前のことになるけれど、その夜、私は名古屋にいて、着いたばかりだというのに、もうすぐ人と会うというのに、こそこそと駅の地下街できしめんを食べていた。

人生においてまだ私はきしめんをちゃんと食べたことがなかった。ぺろぺろと幅の広いあの麺は、もちもちだろうか、つるつるだろうか。仕事終わりに飛び乗った新幹線のなかでそんなことを気にし始めたら、いてもたってもいられなくなり、名古屋駅につくや否やお店に飛び込んだのだった。

カウンター席のすぐ隣には、仕事終わりと思しき一組のサラリーマンが座っていた。九州からの出張帰りなのだろうか。しきりに九州の話をしている。否応なく耳に入ってくる彼らの話題は、「九州の醤油」に移ろうとしていた。

「九州の醤油は甘い、甘すぎる」と一人が言い、もう一人が同意する。

私は九州の出身なので、内心「ひぇっ」と思う。九州を出るまで、醤油といえば甘いものだと思っていた。正確に言うと、醤油とはそういうものだと思っていたので、そもそも「甘い」と感じたことがなかった。私に言わせれば、九州の醤油が甘いのではなく、そのほかの醤油が辛いのだ。

そんな出来事を思い出したのは、伊丹十三の「フランス料理を私と」という本を読んだせいだった。「料理というものは人間の文化の中でも大変保守的なものでしょう」という一説を読んで、なるほどと思うと同時に、食べ物についてのいくつかの思い出がぶわっと蘇ったのだ。

もう一つ、思い出したことがある。そのとき私は、友人の結婚式に出るため九州に帰省していた。式場に向かう時間が近づいているというのに、どうしても空腹が我慢できなくなり、バスセンターの中のうどん屋さんへ吸い寄せられてしまった。

久しぶりに食べるゴボ天うどんは、「美味しい」を超えて、うっかり忠誠を誓いたくなる味だった。それくらい、あまりにもしっくりきた。すぐにスープをすって巨大化するやわやわの麺に、サクサクほくほくのゴボ天。ひとくち飲めば甘くしみわたる出汁。そうそうこれこれ、と身体中が言っている。

少しばかり旅をしていろんな国の味を覚えたつもりでいたけれども、私の味覚はこの土地で形成されていたのだ。新しい言葉を覚えても、ものごとの考え方を変えてみても、味に対する感じ方だけは、これからもずっと変わらないのかもしれない。

片渕ゆり(ぽんず)

1991年生まれ。大学卒業後、コピーライターとして働いたのち、どうしても長い旅がしたいという思いから退職。2019年9月から旅暮らしをはじめ、TwitterやnoteなどのSNSで旅にまつわる文章や写真を発信している。

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